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「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP433・コマ番号260/553から富山藩屋敷の変遷について記載されています。「上屋敷 下谷池之端」がこの地になります。
富山藩前田家
[富山藩(とやまはん)は、江戸時代に越中国の中央部(おおむね神通川流域)を領有した藩である。石高は10万石、加賀藩の支藩であった。藩主は前田家で、家格は従四位下・大広間詰・外様・準国主。藩庁は富山城(富山市)。家紋は宗家の剣梅鉢に対して丁字梅鉢紋を使用した。
寛永16年(1639年)、加賀藩第3代藩主前田利常(利長の弟)が隠居するとき、次男の利次に富山10万石、三男の利治に大聖寺7万石の分封を幕府に願い出て許され、富山藩が成立した。
富山藩の当初の領地は、越中国婦負郡のうち6万石、新川郡黒部川西岸のうち1万6800石、富山町周辺7カ村3170石、加賀国能美郡手取川南岸のうち2万石の計10万石であった。1640年、利次は加賀藩領内にあった富山城を借りて越中入りし、婦負郡百塚に新たに城を築く予定であった(そのため当時、利次は百塚侍従の称号で呼ばれていた)が費用が足りず、築城が進まないまま、やがてこれを断念して富山城に引き続き居することを決め、万治2年(1659年)に居城が自領外という不便の解消ということもあって、加賀藩領であった富山城周辺の新川郡舟橋・水橋(2万7千石)と、自領の新川郡浦山辺(1万6800石)及び飛び地であった加賀国能美郡とを交換して藩領が定まった。そして、1661年に幕府から富山城改築の許しを得て、城と城下町の整備が本格的に進められた。富山町は越中における唯一の城下町であり、他は在郷町と呼ばれる農村地域に存在した商人の町で、あとは農村であった。
新田開発により享保年間には総高は14万石を超えていたとされ、また漁業、売薬業、蚕種業、製紙業などに力を注ぎ、実質的な石高は20万石以上あったとされるが、藩の財政は成立時より常に逼迫しており、上方や飛騨の豪商、また本家である加賀前田宗家から多大な借財を抱えていた。ただしこれは、藩財政が放漫であったことを意味するのではなく、分藩の際に宗家から過大な家臣団を押しつけられたこと、そして藩領が急流河川域であったためたびたび水害に見舞われ、また天保2年(1831年)の城下の大半が焼失した大火、安政5年(1858年)の大地震による大洪水などの災害と、度重なる公儀普請手伝いにより過大な出費を強いられたことによるところが大きい。
江戸後期から幕末には財政問題とそれに関わる権力争い(蟹江監物一件・富田兵部一件)また御家騒動(前田利保項目参照)などがあったことから宗藩の介入を招き、最後の藩主となった第13代利同を加賀藩から迎え、また富山詰家老の派遣を受け入れた。
明治4年(1871年)7月の廃藩置県によって富山県となった。 (wikipedia・富山藩より)]
[嘉永六(一八五三)年の尾張屋板「小石川・谷中・本郷絵図」(同年再刷本)の絵図。中央に「加賀中納言殿」と記された大きな区画が加賀藩本郷邸である。この切絵図は大名屋敷の場合、上屋敷には家紋を、中屋敷には■、下屋敷には●の印を付けている。「加賀中納言殿」の頭に付いているのは加賀藩前田家の表紋である剣梅鉢紋で、この屋敷が加賀藩の上屋敷であったことを示している。その東(右)隣りに「松平大蔵大輔」・「松平飛騨守」とあるのは、加賀藩の支藩富山藩と大聖寺藩の上屋敷である。いずれも本姓は前田であるが、両家は加賀本藩前田家とともに将軍から松平の称号を与えられていた。 「江戸本郷の加賀屋敷 – 加賀殿再訪」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 本郷湯島絵図(嘉永六年・1853年)」(絵図中央下、加賀宰相殿上屋敷下に松平出雲守(前田利友)上屋敷、その右方向、喜連川佐馬頭上屋敷の右に松平出雲守中屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [33]貮拾壹元(安政三年・1856年)」(コマ番号3/7・絵図中央右・不忍池右に松平大蔵大輔(前田利聲)無年貢抱屋敷と描かれています。)
カメラ南西方向は東京大学 池之端門で、門先が富山藩前田家上屋敷跡になります。
カメラ位置は忍岡小学校入口交差点で、カメラ西方向が富山藩前田家中屋敷跡になると思います。