マーカーはフォーレスト本郷です。
関連リンク – 岡崎藩本多家上屋敷、岡崎藩本多家中屋敷跡
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP464・コマ番号276/553から岡崎藩屋敷の変遷について記載されています。P470・コマ番号279/553「下屋敷 本郷森川町」がこの地になります。
[徳川家康(一五四三-一六一六)の重臣、酒井・榊原・井伊・本多忠勝(一五四八-一六一〇)に四人は徳川四天王と称されました。中でも本多忠勝は家康と共に五十七回の合戦に参加しかすり傷一つ負わず「とんぼ切り」の猛将として知られ、家康の関東入りと共に上総国十万石が与えられました。
四代本多政勝が本郷に江戸屋敷(後の下屋敷)を黒田勘解由より買収したのは寛文十年(一六七〇)、現在の本郷六-十六(旧森川町一番地)を中心とした本郷五丁目・六丁目で広さは二万三千二百余坪、買入代金四千五百両でした。その後本多家は六回転封し十一代本多忠粛、明和四年(一七六九)より十六代本多忠直、明治四年(一八七一)迄、三河岡崎五万石の城主でした。明治以降はっきりしませんが、江戸屋敷は本多家森川別邸として昭和になりました。
昭和二十三年、私が入籍した時一番先に行ったのが本多様でした。和服で正装した母に従い広い玄関で緊張して待つと、衝立の奥より執事と思われる人が来られ、私達は深々と頭を下げて挨拶しました。当時西側は平家の建物があり関係者が住んで居りました。
終戦後、財産税により別邸四百二十五坪は大蔵省へ物納され本多家の手を離れました。昭和二十五年文部省本郷寮、昭和三十八年三階建文部省共済組合東京宿泊所、更に平成十二年五階建に新築されてフォレスト本郷となりました。
今では一般にも開放され、お祭り後の反省会、食事、宿泊等にも利用されて居ります。この工事で北側・西側に「房総石」で作られた石塀は無くなり、入口の銀杏だけが昔の姿を残して居ります。 (「文京の古本屋 – 東京の古本屋」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 本郷湯島絵図」(絵図中央に本多中務大輔(本多忠民)下屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸絵図. 3号」(コマ番号2/6・絵図四つ切右下に本多美濃守(本多忠民)下屋敷が描かれています。)
カメラ位置はフォーレスト本郷(本多家森川別邸跡)で、入口左に銀杏があります。