岡田藩伊東家下屋敷跡

マーカーは岡田藩伊東家下屋敷跡です。

関連リンク – 岡田藩伊東家上屋敷跡

伊東長実
[伊東 長実(いとう ながざね)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名(外様大名)。備中国岡田藩初代藩主。
永禄3年(1560年)、尾張国岩倉国人伊東長久の長男として生まれる。日向国飫肥藩伊東氏と遠祖を同じとする。
天正元年(1573年)の小谷城攻めから織田氏に仕え、羽柴秀吉配下につけられ、大母衣衆に抜擢される。別所氏攻めで功績を残して織田信長より脇差を与えられたとの記録が残る。その後も秀吉配下として各地を転戦し、黄母衣衆24人の一人に列せられた。秀吉の中国攻めの頃、同じ伊東氏のよしみで自分を頼ってきた放浪中の伊東祐兵の織田家への仕官を世話した。
天正18年(1590年)の小田原征伐にも従軍し、山中城攻めの際には一番乗りを果たす活躍をし、戦後の天正19年(1591年)に備中川辺に1万300石を与えられ大名となった。文禄・慶長の役では肥前国名護屋に駐屯した。
慶長5年(1600年)6月16日、会津征伐に向かうため下野国小山にいた徳川家康にいち早く石田三成の挙兵を知らせる功績を残した。この功績で後に大坂の陣では豊臣方として入城し、大坂七手組頭の一人として家康に敵対するものの、青木一重と共に大名として存続することを許された。殆どの豊臣方の大名が領地を取り上げられる中、この処置は異例であり、密偵的な活動を行っていたのではないかとも考えられている。
晩年に剃髪し、宗徳と号した。寛永6年(1629年)2月17日に死去。享年70。家督は次男・長昌が継いだ。  (wikipedia・伊東長実より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 本郷湯島絵図(嘉永六年・1853年)」(絵図中央右に伊東播磨守(伊東長寛)下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [33]貮拾壹元(安政三年・1856年)」(コマ番号2/7・絵図中央に伊東若狭守(伊東長裕)下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 武州豊島郡駒込村絵図(写し)」(コマ番号3/3・絵図四つ切右下、浩妙寺右下に伊東若狭守下屋敷と記述されています。)

カメラ位置は日本医大前交差点で、カメラ南南西方向が岡田藩伊東家下屋敷跡になると思います。江戸時代には右側の根津裏門通りの本郷通りへの接続は無く、左道が本郷通りへの接続道でした。