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法真寺
[沿革
当山は、和順山歓喜院法真寺といい、慶長元年(1596年)に京都知恩院より、寺号を附与されている。徳川家康公御台所(御台所賄方?)の天野図書(法真寺殿歓譽西喜大禅定門 寛永10年(1633年)5月20日寂)が、同家下屋敷を寄進し、寺の開基となる。この時の開山上人が、伝通院から来た栄誉泉良和尚という人であった。天保9年(1838年)1月16日に類焼し、現在の本堂は天保10年4月29日に上棟したものである。幸いなことに仏様は無事であった。関東大震災や第二次世界大戦ではいずれも被害を免れた。
明治時代には、境内に学生寮があり、明治天皇から銀時計を授与される東京帝国大学の優等生が続出しました。そのため、法真寺に住めば銀時計が下賜されるというジンクスが生まれ、「銀時計寮」と呼ばれるようになりました。
法真寺の仏様
本尊は阿弥陀如来(座像)で、恵心僧都の作と伝えられています。 その他に当山に安置されている仏像は以下の通り。
●境内の子安地蔵尊は「武蔵風土記」によると弘法大師(空海)の作と伝えられています。
●境内にある腰衣観音は本多候が夢のお告げを受け、当山に安置したと伝えられる。腰腹足の水火剣難疾病等を快癒し、婦人は安産等の御利益がある。明治時代には、柳原二位局が、大正天皇御安産の祈願に参詣されていたという。また、樋口一葉の「ゆく雲」にも登場する一葉ゆかりの観音様でもあります。
●歓喜天(本堂内)当山の院号が歓喜院という所以である。作者知らず。
●閻魔大王(本堂内)これは、江戸時代の資料でも作者知らず、とある。また、樋口一葉が当山の隣に五歳から十歳までの間住んでおり、当時の法真寺の若僧とよく一緒に遊んだ。この若僧が「たけくらべ」の中に登場する「真如」のモデルといわれている。そして、一葉は晩年、当山を「桜木の宿」と呼び、懐かしんだといわれてます。 (「法真寺ホームページ – 法真寺のご案内」より)]
[浄土宗 和順山 法真寺
慶長元年(1596)知恩院より寺号附与されるが、開山年不詳。明治の文人「樋口一葉」ゆかりの寺である。樋口家は、明治9年にこの法真寺の左隣に居を移し一葉10歳まで5年間住んだ。この時代が樋口家では最も安定した時であった。一葉の作品の中に出てくる「腰衣観音」も現存している。 (「文京区ホームページ – 法真寺(ほうしんじ)」より)]
[浄土宗寺院の法真寺は、和順山歓喜院と号します。寛永4年(1627)に源蓮社栄誉上人を開山、法真寺殿願誉歓譽西喜大禅定門(俗称天野京太郎)を開基として創建したといいます。 (「猫のあしあと – 法真寺」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 本郷湯島絵図」(絵図中央左方向法泉寺が法真寺と思われます。)
「文京一葉会館 – Google Map 画像リンク」、「樋口一葉旧居・桜木の宿跡 – Google Map 画像リンク」
カメラ西南西方向が法真寺参道です。