マーカーは福山藩阿部家中屋敷跡です。
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「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP746・コマ番号417/553の鯖江藩上屋敷の変遷について記載されています。P750・コマ番号419/553「中屋敷 本郷丸山」がこの地になります。
福山藩阿部家中屋敷跡
[阿部家は徳川家康の家臣に由来する譜代大名で、阿部家5代正邦は宝永7年(1710)備後(今の広島県東部)福山藩主となります。その後、代々の当主のうち6名が老中職に就いています。なかでも幕末に、ペリーとの間で日米和親条約(1854)を結んだ老中首座、阿部正弘は教科書にも登場する著名な政治家でした。
さて、江戸初期のことです。慶長15年(1610)、阿部家2代目正次は徳川2代将軍秀忠より、本郷丸山に10万余坪の土地を拝領しました。阿部家文書の一つ『粟田私記秘録』には「殿様御馬にて此辺御乗廻し、家従馬蹄の跡へ縄張を致し夫だけ御拝領の由承り候」とその時の様子が書かれています。その範囲は、北は現在の白山上辺りで、火の見櫓がおかれて中仙(山)道を見張り、南はほぼ菊坂下まででした。その頃の丸山辺りは奥州街道がただ一本通っているだけの、人家もないさびしいところであったようです。その後一部を幕府に返上し6万坪余になりますが、この福山藩阿部家の江戸丸山屋敷の土地が明治時代に入って西片町のもととなります。
元禄10年(1697)、5代正邦の時に邸内の北部13,000坪を幕府に上地(返上)します。返上した範囲は幕府医師らの拝領屋敷となって丸山新町と称しました。さらに享保10年(1725)、6代正福の時には邸内の西側を幕府に返上し、ここは明治5年に丸山福山町となります。
最初に丸山の地を拝領したときの表門は中山道に向いていました。元禄の上地以降の表門は石坂を下りきった場所に設けられ、裏門は阿部通りが中山道へ出る口にありました。この表・裏門の位置は以後の江戸期を通して変わりませんでしたが、阿部家が一時引き上げていた福山から再び丸山に戻った明治初期のみ、表門は江戸時代に裏門だった中山道の入り口に設けられています。
宝永7年(1710)、阿部家5代正邦は備後福山藩主となりました。9代正精は文政元年(1818)に、江戸丸山屋敷内に藩校(福山藩文武教習所)を創立します。また藩校の隣に天文測量場も創立して家臣に天文測量の研究をさせ、その管理を任せられたのは、幕府天文方渋川家で暦学の研究をした石坂常賢でした。常賢は同年に「分度星図」を完成させ、後に幕府の天文方に採用されています。天文測量場は正精没後、文政9年(1827)に廃止されました。
11代正弘は文政2年(1819)江戸城西丸下の屋敷で誕生し、文政9年(1826)8歳の時に本郷丸山屋敷に移って、付き人や遊び相手の童児と暮らし始めました。天保4年(1833)15歳で元服すると侍女の手を離れ、丸山邸内の独立した家屋(西片2-13)に移り住んで天保7年に家督を継ぐまで側近家臣と起居を共にし、文武に励みます。正弘は25歳で老中に就任し、以後39歳で亡くなるまで幕末のもっとも困難な時期の国政を担当しました。藩主としての正弘は安政元年(1854)、邸内にあった藩校をもとに江戸丸山誠之館を開講、家臣の子弟は8歳になると入学して文武両道の修練に励みました。翌年、国元にも福山誠之館を開講させています。
安政2年(1855)、安政の江戸大地震が発生、丸山屋敷は地盤が固いため総じて安泰で、家屋の倒壊はわずかでした。一方、辰の口の福山藩上屋敷はかなり倒壊したため、正弘は倒れた家具の下敷きになった正室と共に丸山屋敷にしばらく仮住まいし、江戸城に登城する際には馬で通ったということです。
幕末に黒船が来航して以来、丸山邸内の稲荷山の崖(現在の清水橋の南あたりの崖)でも大砲が鋳造され、安政4年(1857)4月には大小砲の空発など誠之館を本陣とした甲冑訓練も行われました。正弘は調練に臨んだ後の6月に病死し、政局に大きな動揺を与えました。
明治元年(1868)7月に江戸は東京と改められました。阿部家はその年10月には箱館戦争に出兵、明治2年版籍奉還により阿部家14代当主正桓(まさたけ)は福山藩知事になり家臣と共に福山に引き上げました。同3年には北海道の開拓にも携わり1年間苦心しました。
明治4年に廃藩置県が行われ、正桓は家族・旧臣ともども福山から海路上京し、本郷丸山の地に本拠地を構えることにします。一行が上京した当初は、江戸時代に中屋敷だった丸山屋敷(西片)は大木が切り倒され、家屋も荒れ果てていてすぐには住めない状態だったため、しばらく向島の屋敷に仮住まいした後、丸山を本邸としました。
明治5年(1872)、「西片町」の町名が誕生します。阿部家の差配人・篠田政兵衛が、中山道を挟んで向かい側に当たる駒込片町の人たちと話し合いをして、道の東側にあたる旧来の片町を東片町、西側の旧武家地を西片町としたそうです。
阿部家では福山から上京して間もなく邸内の大部分に桑や茶を植え、養蚕室も建てるなど、養蚕や製茶を本格的に開始、西片2-8~12辺りは当時桑畑の中心で、中央を通る道は「桑の小路通り」とよばれました。明治5年には貸地貸家経営も始め、道路や井戸の整備をしました。明治20年までには現在西片を通る主要な道路のほとんどが開通し、清水橋(から橋)も架けられています。当時邸内の井戸は100か所前後あったようです。
西片町には番地もつけられていましたが、西片町10番地はすべて阿部家の邸内で町の大部分を占め、邸内には福山藩関係者が大勢住んでいました。明治17年(1884)には正桓氏に伯爵号が授けられています。明治21年(1888)、邸内の住宅301戸に、「い」から「と」までの「いろは(以呂波)」番号をつけ、各戸に木札を配布しました。中山道沿いの家は1~22番の表組としました。西片町10番地は非常に広く、家を探すのも大変で、現在の学校通りと阿部通りの交差する十字路角にあった交番や近隣の交番には、道を尋ねてくる人が大変に多かったそうです。
西片町略図(拡大図)
明治24年には阿部伯爵家の本邸が新築され、門前にできた広場は皆に「大椎の木の広場」と呼ばれ(現在の西片公園の場所)、西片町の人々の集う場となりました。明治36年ごろまでには街灯、水道鉄管、ガス管なども敷設され、明治末から大正にかけては洋館のある和洋折衷住宅も建てられるなど、新しい技術を積極的に取り入れて、阿部家の手により着々と西片町の町づくりが進められていきます。
阿部家は町内を整備すると同時に教育にも力を注ぎました。丸山屋敷内には江戸時代から藩士子弟の教育のために藩校誠之館が設けられていましたが、明治8年、それを母体として阿部家が土地・資金などを支援し、現在の誠之小学校の前身となる第一大学区第4中学区第十三番公立小学誠之学校が開校しました。 (「西片の歴史 – 西片町会」より)]
[福山藩江戸藩校 誠之館(せいしかん)跡 西片2丁目
「誠之館」は、 福山藩が江戸詰めの藩士の子弟のために設けた藩校である。 福山藩では、天明6年(1786)国元に弘道館を、 文政元年(1818)、江戸藩邸であるこの地、本郷丸山(西片2丁目)に文武場を設けた。
嘉永6年(1853)、『中庸』の「誠ハ天ノ道ナリ、之ヲ誠ニスルハ人ノ道ナリ」から名をとり、 これを「誠之館」と改めた。「誠之館」では就学義務制をとり、8歳で入学、武芸・漢文講読・剣術・槍術など厳格な子弟教育を行い、有能な人材を育てた。明治4年(1871)廃藩置県にともない閉鎖される。
その後も 阿部家(福山藩)は教育に力をつくした。 「学制」公布により小学校制度が発足して間もない明治8年(1875)、 同家から資金、 敷地の一部を譲り受けるなどして開校したのが「誠之小学校」である。
東京都文京区教育委員会 平成元年11月]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 本郷湯島絵図」(絵図中央上に阿部伊勢守中屋敷が描かれています。表門は屋敷地左の大善寺下になり、裏門は御徒組右の中山道に接する場所にありました。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸絵図. 3号」(コマ番号2/6・絵図下中央右に阿部主計頭(阿部正方)下屋敷が描かれています。表門は右下方向、大善寺上になります。)
「第18号Ⅰ平成23年6月1日発行 – 文京区」
「誠之館跡 – Google Map 画像リンク」「西片公園 – Google Map 画像リンク」
カメラ北北東方向先が石坂で、この道先に福山藩阿部家中屋敷の表門があったことになります。
「大椎の木の広場」現在の西片公園前のカメラです。
カメラ西方向・誠之小学校校門前に「誠之館跡」の説明プレートが設置してあります。
カメラ位置は中山道で、カメラ南西方向が西御殿前通り(阿部通り)で、この先に裏門がありました。