マーカーは文京区立清和公園です。
関連リンク – 高崎藩大河内松平家上屋敷跡、高崎藩大河内松平家大川端下屋敷跡、高崎藩大河内松平家深川下屋敷跡
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP544・コマ番号316/553から高崎藩屋敷の変遷について記載されています。P550・コマ番号319/553「中屋敷 元御弓町」がこの地になります。
[樋口一葉が訪れた右京山
今は住宅地となっている鎧坂の西側には、江戸時代、上野高崎藩の藩主・松平右京亮の中屋敷がありました。明治維新後に草地となりましたが、この地は長い間、右京亮にちなんで「右京山」と呼ばれていたそうです。
明治時代、この近くの旧菊坂町に住んでいた小説家の樋口一葉は、時々、鎧坂を歩いて右京山に訪れていたようです。明治25年9月18日、一葉が21歳のときに書いた日記には「夕暮れ時から妹の邦子と散歩に出かけ、右京山で虫の声をきいた」とあります。翌年の明治26年1月29日の日記には次のように記されています。
『部屋の戸を開けて外を見ると、庭も垣根もただ一面に銀の砂を敷いたようにきらきらとして、目の前の右京山はまるで浮き出たようで、夜とも思えないほどはっきり見えるのは月が出たためでしょうか。多くの悩みを捨てて凡俗の世から離れようと思う身にも、捨てきれないのはこの雪景色の美しさです。』(引用元)高橋和彦『完全現代語訳 樋口一葉日記』(アドレエー)P195
さらに、明治26年5月7日の日記には、右京山から母親と一緒に靖国神社の大祭の花火を見たと書かれています。一葉は、右京山で四季折々の景色を眺め、季節の移ろいを感じていたのではないでしょうか。 (「鐙坂(あぶみざか) | TRY タウンガイド “文京風景”」より)]
[北区の十条赤羽エリアで、同潤会の住宅を見て歩き、それに伴って同潤会の事を調べている内に、文京区本郷四丁目、旧町名真砂町にあった東京市営住宅のことを思い出した。そして、この真砂町住宅のことを以前にもっと見ておけばとか、記録しておけば良かったという気持になっている。このブログで取り上げてきたような町を歩いて、過去に繋がる痕跡を追い求めるような作業をしていると、もっとあそこを見ておけば良かったとか、ちゃんと写真を撮っておけばというのは、いつもついて回る感情なのだが、この場所についても改めてチェックしていたら、昔からよく知っていたところだった。なまじ知っていると思っていただけに、後からどういった由来のあるところであるかの情報を見た時に、この場所と結び付ける事が出来ていなかった。
東京市営真砂町住宅は、当時の本郷区真砂町にあった右京山を開発した住宅地である。当時の新しい住宅の改良運動などの成果を取り入れ、大正から昭和の初期に掛けて開発された町である。元々は、高崎藩主の松平右京亮の中屋敷が置かれていたところから、その名が付けられたのが右京山。明治維新後は放置されて、草の生い茂った子供らの遊び場になっていたという。
位置と形が分かる様に、まずは「大正・本郷の子」玉川一郎著青蛙房刊より、大正時代の宅地開発前の地図。中央左右に走っているのが、白山通り。右京山、本郷連隊司令部があって、右手には幕府の老中を務めた阿部家の屋敷が見えている。また、上側には講道館、今も同じ位置にあるこんにゃく閻魔(源覚寺)が見える。 (「文京区本郷四丁目~真砂町住宅 – 東京 DOWNTOWN STREET …」より)]
「近代高崎150年の精神 高崎人物風土記 – 大河内 輝聲 – 高崎の …」
「真砂町市営住宅その1 – Maki’s Blog ほぼ隔日(保存・移行版)」
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 本郷湯島絵図(嘉永六年・1853年)」(絵図中央左上に松平右京亮(松平輝聴)中屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸絵図. 3号」(コマ番号2/6・絵図四つ切右下、本妙寺・長泉寺下に松平右京亮中屋敷が描かれています。)
「東京市拾五区区分全図 第九 本郷区全図 – 公益財団法人 特別区 …」(地図四つ切右下・本郷真砂町30番地 – 38番地の内が高崎藩大河内松平家中屋敷跡になります。)
文京区清和公園前のカメラです。