マーカーは処静院跡の石柱です。
処静院跡の石柱
[【処静院跡】
浄土宗処静院は伝通院の塔頭の一つであったが、明治に入り、現在の淑徳学園あたりに移り、その後廃寺となった。今は伝通院門前に「不許葷酒入門内」(くんしゅもんないにいるをゆるさず)の文字が刻まれた、処静院の石柱を残すのみである。文久三年(1863)二月四日、浪士隊の結成が、ここ処静院で行われた。浪士隊は幕末、京都守護職(会津藩主 松平容保)のもと活躍した新選組の前身である。隊結成にあたり、中心となった人物は清河八郎で、幕臣の鵜殿長鋭(鳩翁)が目付、山岡鉄太郎(鉄舟)が取締の職に就いた。鉄舟と懇意であった処静院の住職琳瑞は結成の趣旨に賛同し、結成の場所として本院を提供した。後に新選組幹部となる試衛館道場の近藤勇、土方歳三、沖田総司なども参加し、総勢約250名ほどで京都に上った。しかし、尊王攘夷をめぐって隊は分裂し、江戸にもどった清河八郎は、麻布一の橋で刺客の手で斃された。享年34歳であった。現在墓は伝通院にある。また、住職琳瑞も慶応三年(1867)小石川三百坂で刺殺された。行年38歳であった。 文京区教育委員会 平成十六年一月]
[【処静院跡の石柱】
この石柱は、伝通院の塔頭の一つで伝通院前の福聚院北側にあった処静院の前に建っていたものである。石柱の文字は、修行と戒律のきびしさを伝えている。処静院は、その後、廃寺となった。文久三年(1863)二月四日、幕末の治安維持を目的とした組織-”浪士隊”の結成大会が処静院で行われた。山岡鉄舟、鵜殿鳩翁、伝通院に眠る清河八郎を中心に総勢250人。その後、浪士隊を離れて、新選組として名をはせた近藤勇、土方歳三、沖田総司などが平隊員として加わっていた。一行は文久三年二月八日、京都へと発った。年号が明治と改まる五年前のことであった。 東京都文京区教育委員会 平成元年三月]
「国際日本文化研究センター – 東都小石川繪圖(安政4・1857年)」(絵図右方向・伝通院中門の左下、所浄院が処静院と思われます。)
カメラ北西方向が処静院跡の石柱です。