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関連リンク – 大垣新田藩戸田家上屋敷跡、大垣新田藩戸田家中屋敷跡
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP695・コマ番号391/553から野村藩(大垣新田藩)屋敷の変遷について記載されています。P698・コマ番号393/553「下屋敷 小日向茗荷谷」がこの地になります。
戸田氏良
[戸田 氏良(とだ うじよし)は、天保10年(1839年)5月28日、美濃大垣藩の第9代藩主・戸田氏正の次男として生まれる。大垣新田藩の第7代藩主・戸田氏綏の養子となり、安政2年(1855年)5月21日、氏綏の死去により家督を継いだ。同年6月1日、将軍徳川家定に拝謁する。同年12月16日、従五位下、淡路守に叙位・任官される。
慶応4年(1868年)3月19日、上洛し、恭順の姿勢を示した。戊辰戦争では新政府に従い、北越戦争に出兵した。明治2年(1869年)6月2日、新政府から軍功として2000両を賜った。
しかし、大垣新田藩は特定の領地を持たない新田藩の形態を取り、なおかつ藩の運営を本家に任せていたため、実態のない藩として、明治2年(1869年)の版籍奉還で藩主氏良は知藩事に任命されなかった。
それに対し、大垣藩主戸田氏共は蔵米3000石に代わり、美濃国内に領地3000石を分割した。それにともない、明治2年5月27日、陣屋を三河渥美郡畑ヶ村から美濃大野郡野村に移し、名称を大垣新田藩から野村藩に改めた。さらに、7月までに藩士を移住させるなどして、城下町としての整備を行った。こうしたことを受けて、10月23日、明治政府は氏良を野村知藩事に任命した。
明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免職となる。 (wikipedia・戸田氏良より)]
「国際日本文化研究センター – 東都小石川繪圖(安政4・1857年)」(絵図中央左に戸田淡路守(戸田氏良)下屋敷が描かれています。)
「東京市拾五区区分全図 第十壱 小石川区全図 – 特別区協議会」(地図中央下・小日向茗荷谷町32,33番地が大垣新田藩戸田家下屋敷跡になると思います。)
カメラ位置は拓殖大学正門前です。