安志藩小笠原家上屋敷跡(文京区役所)

マーカーは安志藩小笠原家上屋敷跡です。

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP810・コマ番号449/553に安志藩屋敷の変遷について記載されています。「上屋敷 小石川富坂下」がこの地になります。

安志藩小笠原家
[安志藩(あんじはん)は、播磨国宍粟郡周辺を領有した譜代大名の藩。藩庁として安志(兵庫県姫路市安富町安志)に安志陣屋が置かれた。
安志藩は小笠原秀政の長男・忠脩の家系であり、本来は小笠原家の嫡流である。しかし、忠脩が大坂の陣で戦死した際、遺児長次が幼年であったため、忠脩の弟・忠真が相続し、忠真の家系が小笠原家の宗家に据えられた。長次は忠真の下で養育された。10歳を越えると播磨国龍野藩6万石に封じられ、翌年元服、数年後に豊前中津藩8万石に加増移封となる。
享保元年(1716年)、中津藩第5代藩主・小笠原長邕が5歳で夭逝し無嗣改易となったが、弟の長興は「祖先の勤労」(大坂の陣で家祖である秀政・忠脩父子が戦死)により安志に1万石で立藩を認められた。
藩祖・長興は生来病弱だったため、19歳で隠居する。しかし継嗣がいなかったため、小倉藩第3代藩主・小笠原忠基の次男・長逵を第2代藩主に迎えた。このため以後は、小倉藩の支藩の如く扱われるようになった。
なお、小笠原家はかつて信濃国守護だったため、初代以外の藩主は代々「信濃守」を名乗った。
明治4年(1871年)、廃藩置県により安志県となった。  (wikipedia・安志藩より)]

東京都立図書館アーカイブ – 小石川谷中本郷絵図(万延2[1861]改正)」[絵図四つ切右上、水戸殿上屋敷右に小笠原信濃守(小笠原貞孚)上屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタル化資料 – 御府内往還其外沿革図書. 十二之二」[コマ番号98/134「延宝年(1673年-1681年)中之形」からコマ番号101/134[当時之形]の絵図右ページ中央に小笠原内匠頭・信濃守と描かれています。]

(内題)東京府武蔵国小石川区小石川表町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図四つ切右下・砲兵工廠の右、小石川下富坂町下の左区画が安志藩小笠原家上屋敷跡になります。)

東京市小石川區全圖 : 明治四十年一月調査 – (題箋)番地入東京市小石川區全圖(明治40・1907年)」(地図四つ切右下・小石川町、陸軍砲兵工科学校及び東京砲兵工廠の右上、小石川下富坂町の字「坂町」の区域が安志藩小笠原家上屋敷跡になります。)

カメラ南方向が安志藩小笠原家上屋敷跡に建つ文京区役所です。