荻野山中藩大久保家下屋敷跡(徳川慶喜終焉の地・現国際仏教学大学院大学)

マーカーは徳川慶喜終焉の地の案内板です。

荻野山中藩大久保家関連ページ – 荻野山中藩大久保家上屋敷跡(泉屋博古館分館)

徳川慶喜終焉の地(国際仏教学大学院大学)
[徳川幕府最後の将軍徳川慶喜(1837~1913)は、水戸徳川藩徳川斉明(なりあき)の七男として、小石川の上屋敷(現在の小石川後楽園一帯)で生まれた。
一橋徳川家の家督を継ぎ、慶応2年(1866)第15代将軍に就任。
翌年、大政奉還したが、鳥羽・伏見の戦いとそれに続くく江戸城開城の後、恭順(きょうじゅん)の意を表し、水戸にて謹慎の後、駿府(すんぷ)に隠棲(いんせい)した。
明治30年(1897)東京に戻り、同34年(1901)この地に移り住んだ。
慶喜は、のちに公爵、勲一等旭日大綬章を授けられ、大正2年(1913)11月22日、急性肺炎のためこの地で没した。
享年76歳。寛永寺墓地に葬られた。  (「文京区ホームページ – 徳川慶喜終焉の地」より)]

[今井(いまい)坂(新坂)
文京区春日2丁目7番と8番の間
 『改撰江戸志』には、「新坂は金剛寺坂の西なり、案(あんずる)に此坂は新に開けし坂なればとてかかる名あるならん、別に仔細(しさい)はあらじ、或はいふ正徳の頃(1711~16)開けしと、」とある。新坂の名のおこりである。
 今井坂の名のおこりは、『続江戸砂子』に、「坂の上の蜂谷孫十郎殿屋敷の内に兼平(かねひら)桜(今井四郎兼平の名にちなむ)と名づけた大木があった。これにより今井坂と呼ぶようになった。」とある。
 この坂の上、西側一体は、現在国際佛教学大学院大学になっている。ここは徳川最後の将軍、慶喜が明治34年(1901)以後住んだところである。慶喜は自分が生まれた、小石川水戸屋敷に近い、この地を愛した。慶喜はここで、専ら趣味の生活を送り、大正2年(1913)に没した。現在、その面影を残すものは、入口に繁る大公孫(いちょう)樹のみである。
     この町に遊びくらして三年居き寺の墓やぶ深くなりたり (釈 迢空(しゃくちょうくう))
            (この町とは旧金富町をさす)
– 郷土愛をはぐくむ文化財 –
文京区教育委員会    平成13年3月]

国際日本文化研究センター – 東都小石川繪圖(安政4・1857年)」(絵図中央下方向に大久保長門守(大久保教義)その右にシンザカと記述されています。大久保長門守下屋敷跡が徳川慶喜終焉の地と思われます。)

徳川慶喜屋敷跡碑 – Google Map 画像リンク」、「徳川慶喜終焉の地 – Google Map 画像リンク」、「慶喜公屋敷大銀杏 – Google Map 画像リンク」、「今井坂 – Google Map 画像リンク

カメラ位置は国際仏教学大学院大学正門で、カメラ北方向に徳川慶喜公屋敷跡碑があります。

カメラ位置は今井(いまい)坂で、坂右に案内板があります。

カメラ北北西方向に徳川慶喜終焉の地の案内板、その左後方に面影を残す大公孫(いちょう)樹があります。

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