磐城平藩安藤家下屋敷跡(お茶の水女子大学・筑波大学附属高等学校・跡見学園)

マーカーはカメラ位置です。

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP351・コマ番号219/553から磐城平藩屋敷の変遷について記載されています。P357・コマ番号222/553「下屋敷 大塚 小石川大塚現今陸軍火薬庫所在地」がこの地になります。

[江戸時代この地域には磐城平藩安藤家の下屋敷がありましたが、明治になると跡地はそのまま陸軍用地となり、明治13(1880)年に陸軍病馬厩、明治23(1890)年に陸軍大塚弾薬庫が造られました。
そして大塚弾薬庫は明治41(1908)年1月1日東京陸軍兵器本廠直属の兵器支廠となり、そのまま廃止まで陸軍の弾薬倉庫として活用されています。
大塚弾薬庫の資料は、関東大震災や戦災の影響もあってほとんど残っていないそうです。
大塚弾薬庫は関東大震災の影響か昭和の初期には廃止され、跡地には昭和7(1932)年、東京女子高等師範学校が移転してきました。
東京女子高等師範学校は、現在のお茶の水女子大学です。  (「華やかな文教地区「陸軍大塚弾薬庫」跡地を歩く : 帝都を歩く」より)]

[お茶の水女子大学は1875年に開校した官立の東京女子師範学校が起源である。1885年に東京師範学校の女子部となり合併されたが、1890年に分離し女子高等師範学校となる。1908年、奈良女子高等師範学校(現:奈良女子大学)の設置に伴い東京女子高等師範学校と改称する。第二次世界大戦後の1949年、国立学校設置法により新制大学「お茶の水女子大学」となり、国立の女子大学として現在に至る。
当初は東京師範学校とともに御茶ノ水にあった。1923年に発生した関東大震災で校舎を焼失したことや、東京女子高等師範学校の敷地の一部を間借りしていた東京高等歯科医学校(現在の東京医科歯科大学)が建物の拡張の必要に迫られたことなどから、東京師範学校とともに現在の大塚の地に移転した。
大塚の地にあるので校名を「大塚女子大学」にしようとする話も持ち上がったが、「塚」の字は墓を意味するので縁起が悪いという反対があり、学校発祥の地である「お茶の水」を名乗ることとなる。  (wikipedia・お茶の水女子大学より)]

[跡見学園は1875年、跡見花蹊が東京神田区中猿楽町に「私立跡見学校」として開校したのが最初。その後名称を跡見女学校と改めた。
跡見学校設立後の生徒は4〜5歳から17〜18歳までの良家の子女が中心であった。開校後、生徒数は順調に増えて猿楽町が手狭になったため、「更ニ壮大ノ校舎ト幽曠ノ庭園ヲ営ミ、大ニ改良ノ方法ヲ施シ、以テ完全ノ女風ヲ養成セント」して、1887年、小石川柳町の敷地約2000坪の新校舎に移転し、1932(昭和7)年 現在地の大塚新校舎に移転した。  (wikipedia・学校法人跡見学園跡見学園沿革より)]

[筑波大学附属中学校・高等学校は1888年(明治21年)に高等師範学校(官立)の尋常中学科として江戸幕府直轄の昌平黌跡に設立されて以来、120年以上の歴史を有する国立の進学校。旧制中学校であった戦時中には特別科学学級が設置された。1940年、小石川区大塚町56(現在地)の新校舎に移転した。  (wikipedia・筑波大学附属中学校・高等学校より)]

お茶の水女子大の坂
[春日通りから音羽通りに抜ける、大塚1丁目2丁目の間にある長い坂道です。
坂の北はお茶の水女子大学の広大なキャンパスが続き、南は跡見学園高校、文京区立音羽中学校、筑波大学附属中・高等学校が続く、学校に挟まれた道です。
朝夕の通学時間には、中高校生や女子大生、母親に手を引かれた幼稚園児が坂を上り下りする姿を見ることができます。
このあたりには江戸時代、磐城平藩安藤家の下屋敷や旗本屋敷がありました。  (「坂と歴史の町・大塚1‐3丁目 – ま・めいぞん小石川」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 音羽絵図(嘉永六年・1853年)」(絵図右上に安藤長門守(安藤信正)下屋敷が描かれています。)

東京市拾五区区分全図 第十壱 小石川区全図 – 特別区協議会」(地図中央左下・大塚町56番地・陸軍弾薬倉庫が磐城平藩安藤家下屋敷跡になります。)

カメラ位置はお茶の水女子大学南門前です。