神田上水の説明板

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神田上水の説明板
[日本最初の上水といわれる「神田上水」は、江戸時代初期徳川家康の命を受けて、大久保藤五郎忠行が開いた。井の頭池善福寺池妙正寺池の流水を落合で合わせ、目白台下の現在の大滝橋辺りに堰を設けて川の水位を上げて上水とし、余った水は神田川に(江戸川)に流した。
 上水は、水戸屋敷(現在の小石川後楽園)を通し、現在の水道橋東側で神田川に樋を架けて渡し、神田・日本橋方面に給水した。
この上水は、江戸時代から長い間、 江戸・東京市民の生命の糧として大きな役割を果たした。明治34年(1901)6月、飲用水としての給水を停止し、その使命を終えた。
 この前の道路は、神田上水の流路で、開渠であったものを、明治の初めに暗渠として道路としたものである。通称「水道通り」といい、旧町名に水道町、水道端の名を残している。
    平成8年3月  文京区教育委員会  (「「小石川探検」9:神田上水路と徳川慶喜屋敷跡!|今日は何をレポート …」より)]

神田上水留. [13] 神田上水白堀通余垂板其外共御普請一件 弘化三午年六月より同四年二月 御普請方 分冊ノ一」(29~34/85・水戸藩上屋敷までの白堀通沿いの神田上水白堀が描かれています。)
神田上水留. [14] 神田上水白堀通余垂板其外共御普請一件 弘化三午年六月より同四年二月 御普請方 分冊ノ二」(17~19/90・神田上水白堀からの給水図が描かれています。)
神田上水留. [15] 神田上水白堀通余垂板其外共御普請一件 弘化三午年六月より同四年二月 御普請方 分冊ノ三」(79~88/93・神田上水白堀の排水渡りの掛樋図画。)
神田上水留. [33] 神田上水白堀通余垂板其外共御普請一件 文久ニ戌年四月より十一月 御普請方 分冊ノ一」(25~35/71・水戸藩上屋敷までの白堀通沿いの神田上水白堀が描かれています。)
神田上水留. [37] 神田上水白堀通余垂板其外共御普請一件 文久ニ戌年四月より十一月 御普請方 分冊ノ五」(8~15/74・水戸藩上屋敷までの白堀通沿いの神田上水白堀が描かれています。)

カメラ北北東方向に神田上水の説明板があります。