福聚院

マーカーは福聚院(大黒天)です。

福聚院
[浄土宗 霊應山 福聚院 鎮護寺
安永3年(1774)開山。三国伝来大黒天
江戸時代から有名で、甲子の日に参れば商売繁盛、金運に恵まれるといわれにぎわった。
鎌倉時代の作と伝わる大黒天座像は、古式で簡潔、量感にあふれている。
門を入ったところにあるとうがらし地蔵は、明治の中ごろとうがらしの好きなおばあさんが持病のぜん息に苦しんでいたが、医者からとうがらしを止められていたにもかかわらず食するうちに亡くなった。
そこで近所の人があわれんで地藏尊を造りとうがらしを供えた。
その後、ぜん息に苦しむ人々が祈願すると治りお礼にとうがらしを供えるようになったと伝わる。  (「文京区 福聚院(ふくじゅいん)大黒天」より)]

国際日本文化研究センター – 東都小石川繪圖(安政4・1857年)」(絵図右方向・伝通院中門左前に大黒天が描かれています。)

福聚院(大黒天) – Google Map 画像リンク」、「とうがらし地蔵 – Google Map 画像リンク

[福聚院(大黒天)
福聚院は伝通院の末院で、本尊は三国伝来の大黒天である。三国伝来とは、インド、中国、韓国を経て、我が国に伝来した由緒深い大黒尊像である。寺伝によれば、この大黒尊像は第36代孝明天皇の時代に、高麗の大臣、録来の土古という人が日本に帰化し、朝廷に仕えた際に護持した大黒天であるといわれている。その後江州(近江国)蒲生郡より江戸に移され、伝通院第36世霊応上人が現在の福聚院の地に祀り、江戸七福神の一つとして知られるようになった。この大黒天は身に甲冑を着用し、外からの災難を防ぎ、右手に宝袋、左手に宝棒を護持して、福録をあたえるといわれていた。特に、60日毎に回ってくる、甲子の日には参拝者も多く、縁日もたった。永井荷風の作品に「最初のロマンチズムを伝えてくれたのは大黒天の縁日に欠かさず出て来たカラクリの見世物と辻講釈の爺さんとであった」とある。今日でも甲子の日には家内繁栄、商売繁盛、心願成就、病気平癒、交通安全、厄除祈願などの護摩札祈願をしている。(文京区史跡さんぽ実施報告書より)
木造・大黒天坐像一軀
像高(右足下より)47.2cm、ヒノキ材、漆箔、彩色。小像ながら簡素な彫法により彫刻的量感がよくあらわれてて、見るべきものがある木造彫刻といえる。特に数少ない古式武装神スタイルを整えていることと、その製作年代を鎌倉時代に遡ることなどを含め貴重な文化財である。大黒天信仰は8世紀にわが国に伝わり、以来、大国主命伝説と習合して寺院の食堂に祀ると繁栄を招くといわれている。江戸時代になって民間信仰として広まり農神として祀られ、七福神の仲間に数えられるようになった。しかし、本来は仏法護持の戦闘神として憤怒形をしているものであることを考えると、この大黒天像は本来のスタイルを尊重している坐像であるといえる。伝通院山内 福聚院 大黒天 「文京区教育委員会」  「福聚院|文京区小石川にある浄土宗寺院、小石川七福神の大黒天」より)]

東都小石川繪圖」(絵図中央右方向・伝通院山門左下に三国傳来大黒天と描かれています。)

カメラ西方向が福聚院山門です。

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