マーカーは多聞院です。
多聞院
[都営地下鉄大江戸線牛込柳町駅の北、徒歩6分。外苑東通りに面している。寺門を入ると新宿区の登録史跡である吉川湊一の墓がある。湊一は江戸時代後期の平家琵琶奏者で、寛政6年(1794年)に盲官最高の職位の検校に昇進し、その後全国の検校を統括する職検校(しきけんぎょう)となった。 また、墓地には松井須磨子の墓があることでもよく知られている。松井須磨子は大正2年(1913年)に島村抱月とともに文芸協会を去って芸術座を組織し、新劇女優として全国的な人気を博したが、大正7年(1918年)に抱月が病死するとその2か月後に後追い自殺をした。遺書には抱月といっしょに埋葬してほしいと記されていたが、周囲の反対によって故郷に葬られて、その後この多門院に分骨埋葬された。 (「東京ガイド」より)]
[真言宗豊山派の寺院で、寛永年間(1624~44)の創建とされます。御府内八十八ヶ所霊場の三十一番札所となっており、この霊場を開創した正等和尚の墓と供養塔もあります。
明治19年長野県に生まれた松井須磨子(本名・小林正子)は、24歳のとき、坪内逍遥が余丁町につくった文芸協会演劇研究所の第一期生に合格し、新劇女優としての第一歩を踏み出しました。44年、第一回公演の「ハムレット」でオフェリアを好演。大正2年に島村抱月と文芸協会を去って芸術座を組織し、全国的な人気を博するとともに、新劇の社会的な地位を高めました。抱月が同7年に病死すると、翌8年、須磨子は34歳の若さであとを追いました。遺書には抱月とともに埋葬してほしいとありましたが、周囲の反対でかなわず故郷に葬られ、のちに多聞院に分骨されました。 (「多聞院 松井須磨子の墓 – 新宿区観光協会|”新宿史跡・文化財” 散策マップ」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 市ヶ谷牛込絵図」(絵図四つ切右下・御手先組の右下に多聞院が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [18]拾九利」(コマ番号4/7・地図中央右下方向に多門院が描かれています。)
カメラ東南東方向が多聞院参道です。