尾張藩徳川家上屋敷跡(防衛省)

マーカーは防衛省です。

関連リンク – 「尾張徳川家中屋敷跡

尾張藩徳川家上屋敷跡(防衛省)
[はじめ上屋敷は、江戸城半蔵門内(現皇居吹上)に幕府より拝領した鼠穴屋敷でしたが、明暦3年(1657)に召し上げとなり、この前年である明暦2年(1656)に拝領していた市谷屋敷がその後継とされて、以後歴代の居屋敷となりました。  (「尾張藩のページ01 – 徳川黎明会」より)]

[約1万人が働く防衛省は、尾張藩尾張徳川家上屋敷跡にあります。明治7 年(1874)からは陸軍士官学校などが置かれ、戦争中は陸軍省にもなりました。戦後は陸上自衛隊の駐屯地となり、平成12 年(2000)から防衛庁(現・防衛省)に。旧陸軍士官学校本部が「市ヶ谷記念館」として残されています。  (「防衛省庁舎 | 一般社団法人新宿観光振興協会」より)]

[明暦の大火後、尾張徳川家の広大な上屋敷が現在の防衛省などの場所にやってきた。すると、寂しかったこのあたりは、茶屋や芝居小屋なども立ち並び、賑わいの一角となった。この絵は、市ヶ谷見附の土橋の一部を右下に置き、八幡宮と、現靖国通りと外堀通りが交わる場所に位置する門前町を緻密に描いている。中央左端に尾張家上屋敷の白壁と火の見櫓がちらっと見える。 
さて、江戸図を見ると、尾張家をはじめ、徳川御三家の屋敷はどれも別格の広さであったことがわかる。 これら御三家の屋敷は、当初は江戸城内、のちの「吹上げの庭」に、3軒が仲良く並んでいた。 しかし、明暦の大火(1657)後の区画整理で、御三家の屋敷は江戸城外へと移され、外堀の西北の外周に一定区間をあけて配置された。大名屋敷の跡地は、明治になると新政府に摂取され、政府の施設や練兵場、諸外国の大使館用地などに転用されたが、中でも、御三家の敷地はその後も特別扱いを受けてきたのだろう、今もなお、その敷地跡が当時とほぼ同じ面積で活用されている。惜しむらくは、小石川後楽園赤坂御所の一部を除き、白壁や石垣など、江戸時代の遺構が殆ど残っていないことだ。  (「広重 Hiroshige 「名所江戸百景」 時空map」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 武州豊嶋郡江戸〔庄〕図(出版年月日・[寛永9(1632)年頃])[絵図四つ切右上・現在の吹上御所付近に「尾張大納言様(徳川義直)」と記述されています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 延宝三年江戸全図(出版年月日・延宝3(1675)刊)」[絵図中央上方向に「尾張中納言殿(徳川光友)」と記述されています。]

国立国会図書館デジタル化資料 – 御府内往還其外沿革図書」 – 「十一之二[3] – 3/3[天保元(1831)年]」[絵図中央に尾張殿(徳川斉温)と描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 市ヶ谷牛込絵図[安政4(1857)年改]」[絵図左上に尾張殿(徳川慶勝)と描かれています。]

カメラ北方向が尾張藩徳川家上屋敷跡(防衛省)です。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*