市谷左内坂定火消屋敷跡

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マーカーはSMEビルです。

市谷左内坂定火消屋敷跡
[10.市谷左内坂(いちがや-さないざか。新宿区市谷左内町21、市ヶ谷八幡横左内坂)
  JR市ケ谷駅を降りて外堀を渡ります。突き当たりになっていますから、右に曲がって直ぐ左の小道を入ります。急な登り坂が延々と続きます。この坂を左内坂と言い、坂の途中に碑が建っています。その説明によると「この坂は、江戸時代初期に周辺の土地と共に開発したもので、開発者の名主島田左内に因み左内坂と呼ばれるようになった。その後明治時代まで名主を務め、代々島田左内を名乗っていたという 」。坂の途中から電柱に取り付けられた表示に左内町の名が見られます。その辺りから右(東)側がその定火消し屋敷が有った所ですが、民家が建ち並んで、どこまでがその屋敷だったか解りません。  (「第156話落語「火事息子」(かじむすこ) 」より)]

[JR市谷駅から徒歩5分ほどで、南北線市ケ谷駅からは徒歩1分程度のソニー・ミュージックエンタテインメントのSMEビルの東側脇に「定火消発祥の地」の説明標柱が建っています。それには、次のような説明が書かれていました。『万治元年(1658), 新たな消防制度として江戸に誕生した定火消の屋敷のひとつがこの市谷左内町21番地および市谷田町1丁目地内に置かれました。屋敷内には火の見やぐらが立てられ, 定火消役の旗本以下, 与力6人, 同心30人, 火消人足およそ100人が火事に備え, ここに初めて火消しの常駐する場所がつくられました。 平成17年2月  新宿区』
幕末の切絵図を見ると、市谷の定火消屋敷は、標柱の建っている所より、もう少し北側にあったように思われます。  (「市谷左内坂定火消屋敷(定火消屋敷⑪ 江戸の大変) – 気ままに江戸 散歩」より)]

[幕末にかけての武家火消の活動
享保の改革による町火消の確立後、幕末にかけて江戸の消防体制は武家火消主体から町火消主体へと移行していく。元文元年(1736年)以降、方角火消は江戸城風上の火事か大火の場合のみ出動と改められる。寛政4年(1792年)には、定火消が町人地へ出動しないことになった(風の強い日に起きた火事のみは例外であった)。文政2年(1819年)には定火消の出動範囲が江戸の郭内に限定され、郭外は町火消の担当となった。こうした武家火消の出動範囲減少は、町火消の能力が幕府に認められたためであった。
黒船来航から2年後の安政2年(1855年)、定火消が2組削減されて8組となる。文久2年(1862年)には方角火消と火事場見廻役が廃止され、所々火消も削減されて担当が11箇所から3箇所となった。慶応2年(1866年)には定火消8組が半減されて4組に、翌慶応3年には1組128名のみの構成となり、江戸の消防体制は町火消へ全面的に依存するようになる。この定火消の大幅な削減は、幕府の洋式軍備拡大が原因であり、大名火消の削減は文久の改革による参勤交代の緩和が原因であった。
明治元年(1868年)、新政府によって武家火消はすべて廃止され、代わりの消防組織として火災防御隊が設けられた。火災防御隊は兵部省に所属し、皇城(江戸城)の消防を担当すると定められたが、翌年には廃止されている。  (wikipedia・火消より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 十一之二(天保元年・1830年)」(コマ番号3/3・絵図中央下、市谷御門右上に「火消御役屋敷」が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 十一」(コマ番号63/203(延宝・1673年-1681年)、64/203(元禄9年・1696年)-65/203(天保9年・1838年)」(左ページ中程に左内坂、火消役屋敷と記述されています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 市ヶ谷牛込絵図(安政4年改・1857年)」[絵図右上・「市谷御門」右下に「定火消御役屋敷渡辺図書助」と記述されている。]

カメラ北西方向がソニー・ミュージックエンタテインメントのSMEビルで、カメラ北方向の建造物裏に「定火消発祥の地」の説明標柱が建っているようです。

定火消
[定火消(じょうびけし、江戸中定火之番)は、万治元年(1658年)にはじまる江戸幕府直轄の火消。明暦の大火の翌年、4000石以上の旗本4名(秋山正房・近藤用将内藤政吉町野幸宣)を選び、それぞれに与力6名・同心30名を付属させて設けられた。幕府直轄の消防組織であり、若年寄の所管、菊間詰の役職であった。4名の旗本には専用の火消屋敷と火消用具を与え、臥煙と呼ばれる専門の火消人足を雇う費用として300人扶持を加算した。 4箇所の火消屋敷はそれぞれ御茶ノ水・麹町半蔵門外・飯田町・小石川伝通院前に設けられ、すべて江戸城の北西であった。この屋敷の配置は、冬に多い北西の風による、江戸城延焼を防ぐためである。宝永元年(1704年)以降は10組(定員1280名)での編成となる。 このため、総称して十人屋敷や十人火消などとも呼ばれた。10箇所の火消屋敷の場所は、赤坂溜池・赤坂門外・飯田町・市谷左内坂・小川町・御茶ノ水・麹町半蔵門外・駿河台・八重洲河岸・四谷門外であった。定火消を命じられた旗本は、妻子とともに火消屋敷で居住した。火消屋敷は約3000坪の広い敷地を持ち、緊急出動用に馬も準備されていた。敷地内には3丈(約9.1m)の火の見櫓が設けられ、合図のため太鼓と半鐘がそなえられていた。この火消屋敷が、現在の消防署の原型である。屋敷内には臥煙の寝起きする詰所があり、夜には長い1本の丸太を枕として並んで就寝した。夜に火事の連絡が入ると、不寝番がこの丸太の端を槌で叩き、臥煙を一斉に起こして出動した。 出動に当たっては火事装束を身につけ、番を先頭に立て、騎馬の定火消と与力、続いて同心に臥煙という順番で隊列を組み、火事場に向かった。  (wikipedia-火消より)]

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