市谷甲良屋敷

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マーカーは試衛館跡碑です。

市谷甲良屋敷
[甲良屋敷と称するところが二ヶ所ある。(1)市谷甲良屋敷 (現 新宿区市谷柳町25番地、市谷甲良町)と千住牛田の甲良屋敷 (現 足立区千住旭町10-31 千寿第四小学校)
市谷甲良屋敷は、徳川家の老女栄順尼の拝領屋敷だったところが、元禄13年(1700)甲良豊前(4代相員)に譲られ、正徳3年(1713)町奉行支配に転じた。甲良家は切米百俵だけでは配下を養っていけないので、地貸しを許されていて、その地に町人が住んだことから町奉行支配となり、この地域を甲良屋敷と言うようになった、とある。『市ヶ谷牛込絵図』(安政4年尾張屋版切絵図)(請求記号東0443-4ア)にも、「市谷甲良屋敷」と記されている。  (「Q2 甲良家は江戸時代どこに住んでいたか。 – 東京都立図書館」より)]

試衛館
[試衛館は江戸市谷甲良屋敷(現在の東京都新宿区市谷柳町25番地)にあり(『東京府名所図会』、『牛込区史』)、近藤家の住居も兼ねていた。『佐藤彦五郎日記』の万延元年(1860)の項には、同所において練兵館(神道無念流剣術)と交流試合を行ったとされている。市谷甲良屋敷は、大棟梁甲良氏が幕府から拝領した土地を町人に賃貸していた賑やかな商店街であった。その商店街にあって、近藤周助の身元保証人である山田屋権兵衛の所有する蔵の裏手に試衛館があった、と山田屋の子孫である田畑家では言い伝えられている。一説には、試衛館は現在の市谷甲良町1番地にあったともされているが、同地には文政年間より明治10年代まで吉野元順という医師が代々「回春塾」という医塾を開業していたことが確認されている(『東京府学事開業調書』)。平成16年3月(2004)、東京都新宿区教育委員会が「市谷甲良屋敷=市谷柳町25番地」という説に基づき、25番地内に記念碑を建立している。ただし、25番地内での詳細な位置は試衛館の名称と共に今後の研究課題である。  (wikipedia・試衛館より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 市ヶ谷牛込絵図」[絵図中央右上方向に市谷甲良屋敷が描かれ、その下にヤキモチサカ(焼餅坂)と記述されています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 市ヶ谷牛込絵図」(コマ番号3/3・尾張殿上屋敷上の柳町通の右端角に坂に挟まれた町屋が市谷甲良屋敷で右の坂が焼餅坂です。)

試衛館跡 – Google Map 画像リンク」、「稲荷社 – Google Map 画像リンク

カメラ位置は市谷甲良屋敷跡で、かってここに近藤周助が試衛館を開いたとされ、カメラ西方向祠右にその標柱(ファイル:試衛館跡碑.JPG)が設置してあります。

2009年の画像

[甲良氏(こうらし)は、江戸幕府作事奉行の輩下である幕府大棟梁。建仁寺流として11代まで続いた家系。主に日光東照宮造営、修理を行った。江戸時代末期には安政の大地震によって崩壊した江戸城修復なども行った家系。初代は甲良宗広(1574年-1646年)といい、現在の滋賀県甲良町法養寺出身。慶長元年(1596年)、京都近衛関白殿御門を建てる際、左甚五郎より片扉宛分を仰せ付けられ、褒美をいただいた。現在、甲良町には甲良豊後守宗廣記念館がある。3代宗賀の時、日光東照宮修繕の褒美として切米100俵と市谷の地(市谷甲良屋敷=現在の市谷柳町25番地)を拝領する。また自らは拝領地に居住せず、千住に屋敷を設けている。10代甲良棟全(明治11年(1878年)没)は安政大地震で倒壊した江戸城破損部の修繕を行い実質、最後の大仕事となった。11代甲良棟隆(匠造、明治43年(1910年)没)の際、明治維新を迎え、廃業した。流派は大島盈株に引き継がれ、のちに新橋駅等、鉄道建築物の造営に貢献した。甲良氏は、11代棟隆の子・伝次郎(鉄道省技師)が昭和21年(1946年)に没して断絶した。菩提寺港区正伝寺。  (wikipedia・甲良氏より)]

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