紀伊新宮藩水野家上屋敷跡

マーカーは紀伊新宮藩水野家上屋敷跡です。

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP884・コマ番号486/553から新宮藩屋敷の変遷について記載されています。「上屋敷 浄瑠璃坂上」がこの地になります。

紀伊新宮藩水野家
[新宮藩(しんぐうはん)は、現在の和歌山県新宮市紀伊国)を治めた藩。ただし、藩として正式に立藩されたのは明治元年(1868年)のことである。藩庁は新宮城(和歌山県新宮市)。藩主は紀州藩御附家老だった水野家で、石高は3万5千石。
新宮は戦国時代豊臣家の家臣・堀内氏善が領していたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に与したために没落する。
その後、紀伊国に封じられた浅野幸長のもとでは浅野忠長が領していたが、浅野本家が安芸広島藩へ移封されると忠長も随伴した。その後、安藤家と共に、徳川頼宣の附家老として入った水野重央が、新宮に3万5000石を領した。
水野家の入部をもって紀伊新宮藩の始まりともされるが、幕藩体制のもとでは、身分はあくまで紀州徳川家の家臣であり、大名としては扱われなかった。水野家は代々家老として藩政に重きを成した。第9代・水野忠央は、後に紀州藩主から第14代将軍となった徳川家茂(慶福)を補佐し、幕末大老で有名な井伊直弼と協力して、家茂を第14代将軍にしようと奔走した。
徳川御三家の紀州藩直轄から新宮城主・水野藩に知行替えが交付された際、現三重県熊野市木本町周辺の住民が猛反対し、当時の藩士吉田庄太夫が奔走して知行替えを中止させている。故人を偲んで木本神社に祀った。  (wikipedia・紀伊新宮藩より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 市ヶ谷牛込絵図[安政4(1857)年改]」[絵図四つ切左上に水野土佐守(水野忠央)上屋敷が描かれています。]

国立国会図書館デジタル化資料 – 御府内往還其外沿革図書.十一之二[天保元(1831)年]」[コマ番号3/3・絵図中央下、長延寺右下に水野對馬守(水野忠啓)と描かれています。]

カメラ位置は浄瑠璃坂で、カメラ南西方向長延寺坂方向へ下る、道路両サイドが紀伊新宮藩水野家上屋敷跡になります。