逢坂

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    逢坂
    [昔、小野美作吾という人が武蔵となり、この地に来た時、美しい娘と恋仲になり、のち都に帰って没したが、娘の夢によりこの坂で再び逢ったという伝説に因み、逢坂とよばれるようになった。
    設置者: 東京都新宿区教育委員会
    設置日: 平成三年九月  (「逢坂(新宿区)」より)]

    船河原町築土神社(堀兼の井戸)
    [船河原町はもともと江戸城内の平河村付近(現 ・千代田区大手町周辺)にあったが、1589年江戸城拡張の際、氏神の築土神社と共に牛込見附(現JR飯田橋駅)付近へ移転。さらに1616年築土神社が筑土八幡町に移転後、同町も筑土八幡町近くの現在地へ移転した(平凡社 『郷土歴史大事典』参照)。ところが戦後、築土神社は千代田区九段に移転。他方で船河原町は現在地に留まったことから、地理的に神社から最も遠い氏子となってしまった。そこでここに飛地社を建て、築土神社の氏子であることを冠したものと思われる。
    余談だが、室町時代築土神社の氏子に伊勢谷総兵衛という尾州家出入りの米商人がいて、代々この船河原町を家元としていたが、その先祖は、京都に晒されていた将門の首を密かに持ち出して、当時上平河村にあった津久戸明神まで船で運んだのだという(この時、将門の首を入れて運んだ桶が、戦前まで築土神社に秘蔵されていた)。
    なお、この地には江戸時代より「堀兼(ほりがね)の井」と呼ばれる井戸があり、その昔,幼い子どもを酷使して掘らせたと伝えられる。  (「船河原町築土神社(堀兼の井戸)」より)]

    [掘兼の井
    所在地 新宿区市ヶ谷船河原町九番地
     堀兼(ほりかね)の井とは、「堀かねる」の意からきており、掘っても掘ってもなかなか水が出ないため、皆が苦労してやっと掘った井戸という意味である。堀兼の井戸の名は、ほかの土地にもあるが、市谷船河原町の堀兼の井には、次のような伝説がある。
     昔、妻に先立たれた男が息子と二人で暮らしていた。男が後妻を迎えると、後妻は息子をひどくいじめた。ところが、しだいにこの男も後妻と一緒に息子をいじめるようになり、いたずらしないようにと言って庭先に井戸を掘らせた。息子は朝から晩まで素手で井戸を掘ったが水は出ず、とうとう精根つきて死んでしまったという。
    平成三年十一月
    東京都新宿区教育委員会  (「掘兼の井 – Monumento(モニュメント)」より)]

    国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 市ヶ谷牛込絵図」(絵図左中程舩河原町右方向に逢坂が描かれています。)

    国立国会図書館デジタル化資料 – 御府内往還其外沿革図書」 – 「十一[203] -「137~139/203」(絵図右端に逢坂が描かれています。)、「148~155/203」(絵図左上に逢坂が描かれています。)、「十一之二[3] -2/3」(絵図中央下に逢坂が描かれています。)

    逢坂 (大坂、美男坂) – Google Map 画像リンク」、「堀兼の井 – Google Map 画像リンク」、「築土神社 – Google Map 画像リンク

    逢坂上・カメラ東方向が逢坂で、坂右・電柱そばに逢坂の標識があります。

    逢坂下・カメラ西方向が逢坂で、カメラ南西方向、掲示板左に逢坂の標識があります。また、カメラ北西方向が築土神社で、カメラ北方向に「堀兼の井戸」(現在はポンプが設置されています。)です。

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