明楽茂村屋敷跡

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マーカーは明楽茂村屋敷跡です。

明楽茂村
[明楽 茂村(あけら しげむら、宝暦10年(1760年) – 天保12年(1841年))は、江戸幕府幕臣旗本。子は普請奉行などを勤めた明楽茂正
宝暦10年(1760年)に生まれる。初名は源次郎。後に八五郎、八郎右衛門。明和3年(1766年)10月4日に家督を継ぐ。御広敷御庭番となり、御普請方改役、普請下奉行を経て、寛政6年(1794年)7月25日に御目見の身分となり西丸二丸山里の御庭預となる。寛政9年(1797年)4月7日に御休息御庭者支配となり、同年9月14日には御賄頭となる。
文化10年(1813年)閏11月に腰物奉行となり100俵高に加増。文化13年(1816年)12月には勘定吟味役上座となり、文政5年(1822年)4月に100俵加増、文政10年(1827年)11月に御留守居番との兼職を命ぜられる。天保2年(1831年)12月に諸大夫役となり飛騨守を称す。
天保3年(1832年)3月15日、同月に亡くなった村垣定行に代わり勝手方勘定奉行に就任し500石高となる。天保8年(1837年)8月28日に300石加増されて800石高になる。天保12年(1841年)正月、勘定奉行在任中に没す。享年82。
なお、茂村は御庭番として身分を隠して諸国の実情を探る遠国御用も勤めている。天明8年(1788年)2月に小十人格御庭番の梶野平九郎と共に京都へ、寛政8年(1796年)4月には添番並庭番の高橋松三郎と共に上方筋を調査するための御用を果たしたという記録が残っている。
また、天保9年(1838年)には、全国の諸大名から集めた資料に基づいて天保の国絵図を作成している。茂村の指揮の下、幕府勘定所が一手に改訂したもので、「松前島(北海道)」図に北方地域に関する新しい情報が書き加えられているのが特徴である。
御庭番・明楽家分家
茂村は御庭番家筋・明楽樫右衛門家の分家である明楽源之助家の2代目である。
茂村の父・明楽源之助茂昭(しげあきら)は、明楽家2代目嘉太夫政晴(まさはる)の三男で、3代目宇八郎正元(まさもと)と4代目善次郎允武(まさたけ)の弟である。延享3年(1746年)9月28日に分家を立て新規に御広敷伊賀者となり、御庭番を勤め、後に御広敷御庭番となる。  (wikipedia・明楽茂村より)]

[明楽茂村の長子・明楽茂正(重之丞)の妻は川村修富(川村修富・修就屋敷跡)の二女・唯である。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 外桜田永田町絵図」[絵図右上・日比谷御門の左の(桜田)御用屋敷内に拝借御長屋(長屋と言っても総建坪42.5坪の一軒家)に住居した場所です。明楽茂村が寛政10年(1798年)に神田三河町の拝領屋敷に移転後、その長屋に川村修富・川村修就親子が入居している。この屋敷地の長屋には笠森お仙と結婚した倉地政之助満済(まずみ)の子・倉地久太郎、倉地新平の名もある。また、桜田御用屋敷では、江戸時代後期になると将軍の御生母以外の側室が静かに余生を過ごした。]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 駿河台小川町絵図」[絵図中央付近・一橋通り小川丁と表神保小路交点角に明楽八郎右エ門と記述されています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 駿河台小川町絵図」[絵図中央付近・一橋通り小川丁と表神保小路交点角に明楽大隅守(茂村の子・茂正)と記述されています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四」[81/87・文化5年(1808年)の桜田御用屋敷、83/87・天保9年(1838年)の桜田御用屋敷]

国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸絵図. 1号」(コマ番号3/6・絵図「御本城」左方向「榊原」左方向に「明楽八五郎」と描かれています。)

カメラ北北東方向に明楽茂村屋敷があったようです。

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