マーカーは村垣範行(村垣範正実家)屋敷跡です。
[天保9年(1838年)武鑑に「御台様御用人御広敷添番衆、つきじ三ノハシ 村垣佐太郎」と見える、また市史稿市外編に村垣佐太郎(旗本・1200石-定行の石高を継承している)が増山河内守の屋敷地を分割拝領の記述が見える。 (「25.切絵図考証一二 安藤菊二(PDFファイル:2541.23 KB)」より)]
「[上記のことから、村垣定行(天保3年3月10日(1832年4月10日))の死後、子・範行は、築地の築地本願寺前・三ノ橋南に屋敷地を拝領しているようです。範行の次男・村垣範正(村垣範正屋敷跡)は天保2年(1831年)、新規に召し出され小十人格庭番となっていますので、村垣定行屋敷から分家したようです。]
[村垣範正・安政6年5月19日の日記
忌服御届
私母小普請組松浦弾正支配村垣整三郎養父方曾祖母儀、病気之処、養生不相叶、
昨夜戌上刻、致死去候、依之定式之忌服、左之通請申候、
忌五十日 五月十八日より七月八日
服十三ヶ月 未五月より申五月迄
右之通御座候、此段御届申上候
五月十九日 村垣淡路守 (「江戸の忌中~村垣淡路守公務日記之16より」より)]
資料リンク
「近代デジタルライブラリー – 万延元年第一遣米使節日記」
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図(嘉永二年・1849年)」[絵図中央左に稲葉長門守の右上に村垣佐太郎(村垣範行)と記述されています。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 京橋川筋南之方芝口橋川筋限木挽町築地鉄砲洲辺迄一円之絵図 : 天保九(1838)年」(絵図四つ切右下「稲葉丹後守」左上に「村垣左太夫」と描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 七」[コマ番号136/147・当時之形地図右下に村垣佐太郎(村垣範行)と記述されています。]
「京橋南芝口橋築地銕炮洲邉絵図 / 玉香園主人 [編] 」 – 「 bunko10_08631_p0003.jpg」(絵図中央上・稲葉長門守中屋敷右下に村垣整三郎(村垣範行)と記述されています。)
「京橋南築地鉄炮洲絵図 / 景山致恭 図撰」 – 「bunko10_08632_p0004.jpg」[絵図中央上・稲葉長門守中屋敷左上に村垣季三郎(範行の子か?)と記述されています。]
カメラ南西方向ビル付近に村垣範行(村垣範正実家)屋敷があったようです。