桜田御用屋敷跡

マーカーはカメラ位置です。

[寛政10年(1798年)桜田御用屋敷の明楽八五郎(明楽茂村)が転居したので、その御長屋を拝借して転居しました。文化13年(1816年)修富「永々御目見以上」を仰せつかりました。(父親が「御目見以上」だと惣領息子は御目見以下からスタートしなければならないが、「永々御目見以上」になっていれば、最初から御目見以上の身分で御召出に与る。)また、この年三女「作」を「まち」と改名し、 御作事方大棟梁・甲良家に嫁がせました。その年10月息子・釜五郎(修就)が小十人格御天守台下御庭番を仰せつかる。文化14年(1817年)に御長屋拝借人の名義を息子・川村修就名義に変更。同年修就は御台様御用達・宮重伝三郎(惣右衛門)の娘・滝と結婚しました。文政7年(1824年)桜田御用屋敷内御長屋が虎ノ門外の火除地に移転することになり、この機会に拝領屋敷地を獲得するため、屋敷三方相対替の許可願いを提出。
この桜田御用屋敷地の御長屋には笠森お仙(鈴木春信お仙茶屋」)と結婚した倉地政之助満済(まずみ)の子・倉地久太郎、倉地新平の名もある。
川村修富の長女対(つい)は、村垣定行の子・範行(専次郎・村垣定行屋敷跡村垣範行(村垣範正誕生)屋敷跡)に嫁いだが婚姻2年目に死亡、子はなかった。また二女・唯は明楽茂村(明楽茂村屋敷跡)の長子・明楽重之丞(明楽茂正)に嫁いでいる。

  「小松重男著 – 旗本の経済学」より]

[「まち」の嫁ぎ先は甲良氏第8代棟梁・甲良棟村(筑前)と思われます。(「旗本の経済学」に川村修富葬儀の際の形見分け者名に甲良筑前の名がある。甲良家にその外の名は無い。)
甲良棟村は切米百俵が給され、「六間ほり」に拝領屋敷がありました。  (「Q2 甲良家は江戸時代どこに住んでいたか。 – 東京都立図書館」より)]

[倉地政之助満済は、享保3年(1718年)5月に徳川吉宗の母(浄円院)とともに和歌山城から江戸城に入った者の一人である、倉地文左衛門に始まる御庭番家筋の子として、寛保元年(1741年)に生まれた。明和3年(1766年)25才の時、奥御休息御庭之者支配となる。明和7年(1771年)御庭番家筋馬場善五兵衛の養女・仙と結婚。寛政6年(1794年)御金奉行に就任。文化5年(1808年)死去。妻・仙は 文政10年(1827年)病没。    (wikipedia・御庭番、「[考証]江戸の面影(一) – Google ブック検索結果」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 外桜田永田町絵図(嘉永3年・1850年)」(絵図右上・川村修富が日比谷御門の左の(桜田)御用屋敷内に拝借御長屋(長屋と言っても総建坪42.5坪の一軒家)に住居した場所です。また、桜田御用屋敷では、江戸時代後期になると将軍の御生母以外の側室が静かに余生を過ごした。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四之二(文久元年・1861年)」(コマ番号3/3・絵図四つ切右上に「桜田御用屋敷」と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四」[79/87・甲府中納言殿(徳川第6代将軍徳川家宣が甲府宰相時代の屋敷)が後(1732年以降)に桜田御用屋敷となる、80/87・享保16年(1731年)の桜田御用屋敷、81/87・文化5年(1808年)この時期川村修富が拝借、83/87・天保9年(1838年)の桜田御用屋敷]

カメラ位置は日比谷公園でこの付近に桜田御用屋敷があった。

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