桜田御用屋敷跡

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御庭番
[御庭番は、江戸幕府の職制では大奥に属する男性の職員・広敷役人のひとつで、若年寄の支配だった。彼らは江戸城本丸に位置する庭に設けられた御庭番所に詰め、奥向きの警備を表向きの職務としていた。時に将軍の側近である御側御用取次から命令を受け、情報収集活動を行って将軍直通の貴重な情報源となった。また、日常的に大名・幕臣や江戸市中を観察し、異常があれば報告するよう定められていたといわれる。
庭の番の名目で御殿に近づくことができたので、報告にあたっては御目見以下の御家人身分であっても将軍に直接目通りすることもあり、身分は低くても将軍自身の意思を受けて行動する特殊な立場にあった。
その特殊な任務のために功績を挙げて出世する機会に恵まれ、中には幕末に初代新潟奉行長崎奉行を歴任した川村修就勘定奉行外国奉行を歴任し、日米修好通商条約批准のため使節副使としてアメリカに渡った村垣範正のような人物もいる。
起源
御庭番の前身は、徳川吉宗が将軍就任前に藩主を務めていた紀州藩お抱えの薬込役(くすりごめやく)と呼ばれる役人たちで、紀州藩でも奥向きの警備を表向きの職務とし、藩主の命を受けて情報収集を行っていたといわれる。吉宗が将軍に就任したとき、薬込役のうち十数人の者たちが吉宗に随行して江戸に移り、幕臣に編入されて御庭番となった。紀州藩の薬込役は全体で数十人おり、その中から幕臣に編入されたのは十数人だけだったが、これは輪番で江戸に随行した者を任命しただけで、特に選抜して連れてきたというわけではない。
吉宗が御庭番を新設した理由としては、家康以来幕府に仕えてきた伊賀者甲賀者が忍者としての機能を失い、間諜として使い物にならなくなったことや、傍流の紀州家から将軍家を継いだ吉宗が代々自分の家に仕えてきて信頼のおける者を間諜に用いようとしたことが、理由として挙げられる。また、幕府の公式の監察官だった大目付が後代には伝令を主たる職務とする儀礼官になったこともあり、将軍直属の監察能力が形骸化したため、これを補って将軍権力を強化する意味あいもあった。
「御庭番」の家筋の祖となった17名の採用経緯と役職名の変遷
享保元年10月に吉宗の長男長福丸(後の徳川家重)に供奉して江戸城に入った者(「広敷伊賀者」に任命、元紀州藩「薬込役」) – 川村弥五左衛門、宮地六右衛門、薮田定八
●享保元年11月に江戸に出府した者(12月に「広敷伊賀者」に任命、元紀州藩「薬込役」) – 明楽樫右衛門、西村庄左衛門
●享保3年5月に吉宗の母(浄円院)とともに和歌山城から江戸城に入った者(「広敷伊賀者」に任命、元紀州藩「薬込役」) – 馬場瀧右衛門、中村万五郎、野尻七郎兵衛、村垣吉平、古坂興吉、高橋輿右衛門、倉地文左衛門、梶野太左衛門、和多田孫市、林惣七郎、吉川安之右衛門
以上、江戸幕府の「広敷伊賀者」となった16名は享保11年2月に7名が「御休息御庭締戸番(おきゅうそくおにわしめどばん)」、残りの9名は「伊賀御庭番」となり、従来の「広敷伊賀者」と区別された。
●享保14年8月に紀州藩出身で江戸幕府でも「口之者」を勤めていた者1名(「御庭番」に任命、元紀州藩「口之者」) – 川村新六
以上の合計17名が「御庭番」の祖となった。
身分と家柄
御庭番は、吉宗のとき紀州藩で薬込役と呼ばれていた隠密任務に就いていたものを幕府に編入され、最終的に17名が初代の御庭番に任命された。以後の御庭番はこの子孫17家の世襲からなり、さらに分家9家が生まれて合計26家となり、歴史の中で4家が解任され、幕末には22家が残った。彼らは、世襲によってまかなわれる御庭番の家筋としての団結を保ち、御庭番の職務を協同して行っていた。
御庭番の家筋の諸家は、当初はすべてが下級の御家人だったが、幕末までに大半の家が下級の旗本にまで上昇した。御庭番出身の者が出世すれば、当然に軽輩の職務である御庭番からは離れることになるが、その子が新たに幕府に出仕するときは御庭番となるのが定めで、旗本に出世した御庭番の子は旗本格の御庭番になった。
彼らは当時の武鑑に御庭番として収録されており、間諜でありながら氏名、住居はもとより収入や経歴に至るまで公開されていた。  (wikipedia・御庭番より)]

[寛政10年(1798年)桜田御用屋敷の明楽八五郎(明楽茂村)が転居したので、その御長屋を拝借して転居しました。文化13年(1816年)修富「永々御目見以上」を仰せつかりました。(父親が「御目見以上」だと惣領息子は御目見以下からスタートしなければならないが、「永々御目見以上」になっていれば、最初から御目見以上の身分で御召出に与る。)また、この年三女「作」を「まち」と改名し、 御作事方大棟梁・甲良家に嫁がせました。その年10月息子・釜五郎(修就)が小十人格御天守台下御庭番を仰せつかる。文化14年(1817年)に御長屋拝借人の名義を息子・川村修就名義に変更。同年修就は御台様御用達・宮重伝三郎(惣右衛門)の娘・滝と結婚しました。文政7年(1824年)桜田御用屋敷内御長屋が虎ノ門外の火除地に移転することになり、この機会に拝領屋敷地を獲得するため、屋敷三方相対替の許可願いを提出。
この桜田御用屋敷地の御長屋には笠森お仙(鈴木春信お仙茶屋」)と結婚した倉地政之助満済(まずみ)の子・倉地久太郎、倉地新平の名もある。
川村修富の長女対(つい)は、村垣定行の子・範行(専次郎・村垣定行屋敷跡村垣範行(村垣範正誕生)屋敷跡)に嫁いだが婚姻2年目に死亡、子はなかった。また二女・唯は明楽茂村(明楽茂村屋敷跡)の長子・明楽重之丞(明楽茂正)に嫁いでいる。

  「小松重男著 – 旗本の経済学」より]

[「まち」の嫁ぎ先は甲良氏第8代棟梁・甲良棟村(筑前)と思われます。(「旗本の経済学」に川村修富葬儀の際の形見分け者名に甲良筑前の名がある。甲良家にその外の名は無い。)
甲良棟村は切米百俵が給され、「六間ほり」に拝領屋敷がありました。  (「Q2 甲良家は江戸時代どこに住んでいたか。 – 東京都立図書館」より)]

[倉地政之助満済は、享保3年(1718年)5月に徳川吉宗の母(浄円院)とともに和歌山城から江戸城に入った者の一人である、倉地文左衛門に始まる御庭番家筋の子として、寛保元年(1741年)に生まれた。明和3年(1766年)25才の時、奥御休息御庭之者支配となる。明和7年(1771年)御庭番家筋馬場善五兵衛の養女・仙と結婚。寛政6年(1794年)御金奉行に就任。文化5年(1808年)死去。妻・仙は 文政10年(1827年)病没。    (wikipedia・御庭番、「[考証]江戸の面影(一) – Google ブック検索結果」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 外桜田永田町絵図(嘉永3年・1850年)」(絵図右上・川村修富が日比谷御門の左の(桜田)御用屋敷内に拝借御長屋(長屋と言っても総建坪42.5坪の一軒家)に住居した場所です。また、桜田御用屋敷では、江戸時代後期になると将軍の御生母以外の側室が静かに余生を過ごした。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四之二(文久元年・1861年)」(コマ番号3/3・絵図四つ切右上に「桜田御用屋敷」と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四」[コマ番号79/87・甲府中納言殿(徳川第6代将軍徳川家宣が甲府宰相時代の屋敷)が後(1732年以降)に桜田御用屋敷となる、コマ番号80/87・享保16年(1731年)の桜田御用屋敷、コマ番号81/87・文化5年(1808年)この時期川村修富が拝借、コマ番号83/87・天保9年(1838年)の桜田御用屋敷]

カメラ位置は日比谷公園でこの付近に桜田御用屋敷があった。

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