雉子橋御用屋敷跡(川村修富生地)

マーカーは雉子橋御用屋敷跡です。

[御庭番に割り当てられた御長屋は桜田御門外の桜田御用屋敷と雉橋御門そばにありました。
御庭番家筋の川村家は紀州藩時代からの徳川吉宗の愛馬の手綱取りである「馬口之者(うまくちのもの)」を務めていた川村脩常が、享保14年(1729年)8月御庭番として任命されたことに始まる。川村修就の父・川村修富(ながとみ)は宝暦11年(1762年)、川村英政(つねまさ・御台様御広敷番之頭)の次男として雉橋御門の御長屋で生まれた。川村家は兄・條理(みちまさ・小十人格御天守台下御庭番)が継いだ。安永5年に新規御召出(西丸御広敷添番並・御庭番の地位は両番格御庭番を筆頭に小十人格御庭番までが直参旗本以上の地位の者、以下、添番御庭番、添番並御庭番、伊賀御庭番という格付けで体制が整えらています。)後も、結婚後も雉橋御門の兄の御長屋で同居。寛政2年(1790年)両番格御庭番古坂正次郎と共に越後国へ遠国御用を仰せつかる。寛政3年(1791年)御目見を果たし、れっきとした「御旗本」になる。寛政4年(1792年)雉橋御門の御長屋に空きができ初めての御長屋を拝借しました。しかし、官舎での暮らしも九ヶ月で終わり、御用屋敷が公儀御用のため召し上げられることになり、その見返りに麹町二丁目横町・村上三郎右衛門の上地(返上地)を分割した残地100坪を拝領(後年この地を屋敷三方相対替として利用する。)します。しかし、家作普請する貯えもないので、家作普請の間、武士屋敷地を借地する旨届し、下谷東同朋町肴店横丁の深尾八太夫組御徒西郷小四郎拝領地所在(川村修富拝領町屋)の家作へ転居します。  「旗本の経済学」より]

「「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 一之二」(2/2・地図左下・雉子橋御門右上に御用屋敷と記述されています。)
国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 一」(14/130・地図下・雉子橋御門上に御用屋敷と記述されています。)

カメラ東方向が雉子橋御用屋敷跡です。

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