マーカーは一ツ橋です。
一ツ橋
[「一ツ橋」の地名は中心部よりやや南を南東から北西へ縦断する日本橋川に架かる一ツ橋(一橋)に由来している。一ツ橋付近はもともと日本橋川と小石川(現在の白山通り)の合流地点であり、合流点を表す「ひとつ」がこの地点に架かる橋の名称、さらにこの付近の地名になった。町名の由来となった一ツ橋は後述の一橋御門の築造以前から存在していたと考えられている。
江戸時代初期の1606年(慶長11年)以降、この橋の前に江戸城の外郭門が築造され、「一橋御門」と命名された。8代将軍徳川吉宗は、子の徳川宗尹に一橋門内(現在の丸紅本社 – 一橋会館の一画)に屋敷を与えて一橋家を創設、のち御三卿の一つに数えられた(地名が「一ツ橋」と表記されるのに対し、御三卿の家名は一般に「一橋」と表記される)。江戸中期以降、一橋門外は火除明地となり一帯は「護持院原」(ごじいんがはら / 森鴎外の小説で有名)と命名された。江戸幕府終焉後の1873年(明治6年)になって一橋門は撤去された。
一ツ橋門(明治期撮影)・wikipedia-photo (wikipedia・一ツ橋より)]
一ツ橋見附門
[一ツ橋門は陸奥国または出羽国の大名によって寛永6年に築かれた。古くから丸太1本の橋があったことで一ツ橋と呼ぶ。首都高速に覆われた外濠の日本橋川を上ると内濠と接近してくる。一ツ橋を渡った東側に一ツ橋門の枡形の石垣が残されている。その正面には内濠の平川門が見え、手前に丸紅ビル前の道沿いに一橋徳川家屋敷跡の標柱がある。八代将軍吉宗次男の徳川宗武(北の丸西・田安門)、三男徳川宗尹(一ツ橋門)、9代徳川家重の二男徳川重好(北の丸東・清水門)の御三卿の家名はそれぞれの見附門名から名付けられた。写真の手前が現在の内濠の平川門橋で、外濠の一ッ橋を渡ると右側の渡櫓門から出てくる。雉子橋門とともに内濠と外濠がもっとも近接した場所である。 (「大江戸歴史散歩を楽しむ会 – 一ツ橋御門」より)]
松平伊豆守関連リンク – 三河吉田藩松平(大河内)家上屋敷跡、三河吉田藩松平(大河内)家箱崎下屋敷跡、三河吉田藩松平(大河内)家池之端下屋敷跡、吉田藩松平(大河内)家深川下屋敷跡
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP422・コマ番号255/553から豊橋藩(吉田藩)屋敷の変遷について記載されています。P422・コマ番号255/553「上屋敷 一ッ橋内」がこの地になります。
松平伊豆守信綱屋敷跡
[慶長元年(1596年)、徳川家康の家臣・大河内久綱の長男として武蔵国で生まれる。父の久綱は伊奈忠次配下の代官として小室陣屋付近(埼玉県北足立郡伊奈町小室)に居住していたので、当地で生まれたとする説が有力である。
慶長6年(1601年)に叔父・松平右衛門大夫正綱の養子となる。あるとき正綱が一人でいると、当時は三十郎と名乗っていた信綱がやって来て、「私は代官の子で口惜しい。恐れながら名字が欲しいので養子にしてほしいです」と嘆願した。正綱は笑いながら「そなたはまだ幼少の身分で本名を捨て我が名字を望むのはなぜか?」と訊ねた。「私の本名では御上の近習を勤めることは叶い難い。何卒養子にもなれば御座近く御奉公できるかもしれない」と答えた。正綱は不憫に思い、「なるほど、望みのように養子にしよう。けれども一通り父母に申してから字(あざな)を遣わそう」と挨拶した。両親にもこの旨を話して事が済むと、信綱は大いに喜んで「今日よりは松平三十郎なり」と述べたという。
慶長8年(1603年)9月3日、将軍世子の徳川秀忠に、11月には正綱に従って伏見城に赴き、11月15日に徳川家康と初めて拝謁した。慶長9年(1604年)7月17日に秀忠の嫡男・徳川家光が誕生すると、7月25日に家光付の小姓に任じられた。
慶長16年(1611年)11月15日に前髪を落として元服し、正永と名乗る。
元和6年(1620年)1月20日に500石を与えられた。 このとき家紋も三本扇とした。この年の12月下旬に養父の正綱に実子の松平利綱(正次・左門)が生まれると、信綱は「正」の通字を継ぐのは実子であるとして自らは名を正永から信綱と改め、元和9年(1623年)6月15日に御小姓組番頭に任命され、新たに300石の加増を受けた。7月には家光の将軍宣下の上洛に従い、従五位下伊豆守に叙位・任官された。
寛永元年(1624年)5月16日には1,200石を加増された。
寛永5年(1628年)1月5日には相模国高座郡・愛甲郡で8,000石の所領を与えられ、合計1万石の大名となった。このときに一橋門内において屋敷を与えられた。
寛永10年(1633年)3月23日、阿部忠秋や堀田正盛、三浦正次、太田資宗、阿部重次らと共に六人衆に任命された。5月5日、阿部忠秋や堀田正盛らと共に家光より老中に任じられ、同時に1万5,000石を加増されて3万石で武蔵忍に移封された。
寛永14年(1637年)10月末に肥前国島原や肥後国天草郡などでキリシタン一揆が発生した(島原の乱)。信綱ら首脳陣は当初、板倉重昌と石谷貞清を派遣し、さらに日根野吉明や鍋島勝茂、寺沢堅高、松倉勝家ら九州の諸大名に鎮圧と加勢を命じた。しかし一揆勢は原城に立て籠もって抗戦し、戦闘は長期化した。
当初、幕府軍の総大将は板倉重昌であり、信綱は戸田氏鉄と共に一揆鎮圧後の仕置・戦後処理のために派遣されていた。だが寛永15年(1638年)1月1日に重昌が戦死。石谷貞清も重傷を負ったため、代わって信綱が幕府軍の総大将に就任することになった。
1月11日には篭城する一揆軍に対してオランダ船のデ・ライブ号に要請して援護射撃をさせた。 1月28日に副将格の戸田氏鉄が負傷するなど一揆の抵抗も激しく、信綱は立花宗茂、水野勝成、黒田一成ら戦陣経験がある老将達と軍議が行われて兵糧攻めに持ち込んだ。この結果、2月下旬には一揆の兵糧はほぼ尽きてしまい、2月28日までに原城を陥落させた。信綱は一揆の総大将である天草四郎の首実検を行い、さらし首とした。このとき信綱の家臣6名も戦死し、手負い103名であった。3月1日には原城を破却して捕らえた者は斬首してさらした。また松倉勝家・寺沢堅高両名も一揆を招いた責任ありとして処罰を言い渡した。
戦後、一揆鎮圧の勲功を賞され、寛永16年(1639年)1月5日には3万石加増の6万石で川越藩に移封された。信綱は城下町川越の整備、江戸とを結ぶ新河岸川や川越街道の改修整備、玉川上水や野火止用水の開削、農政の振興などにより藩政の基礎を固めた。
島原の乱後、信綱はキリシタン取締りの強化や武家諸法度の改正、ポルトガル人の追放を行なった。またオランダ人を長崎の出島に隔離して鎖国制を完成させた。
寛永15年(1638年)11月に土井利勝らが大老になると、信綱は老中首座になって幕政を統括した。寛永16年(1639年)8月に江戸城本丸が焼失すると、その再建の惣奉行を務めた。
慶安4年(1651年)4月の家光没後はその息子で第4代将軍となった徳川家綱の補佐に当たり、家光没後の直後に起こった慶安の変を7月に鎮圧した。承応元年(1652年)9月に老中暗殺を目的とした承応の変も鎮圧した。明暦3年(1657年)1月の明暦の大火などの対応に務めた。
寛文2年(1662年)1月18日に病気に倒れて出仕できなくなり、嫡男の輝綱が代理として出仕した。3月16日の夕刻に老中在職のまま死去した。享年67(満65歳没)。 (wikipedia・松平信綱より)]
「国会図書館デジタルコレクション – 武州豊嶋郡江戸〔庄〕図(寛永9(1632)頃)」[絵図右上・きじばし(一橋御門・絵図ではひとつ橋ときじばしがが逆に描かれている。)下に松平伊豆(松平信綱)と描かれています。]
「江戸城御外郭御門絵図 – 詳細 :東京都立図書館デジタル …」
「国立国会図書館デジタルライブラリー – 飯田町堀留より数寄屋橋御門外迄御堀浚道造出来形絵図」(コマ番号3/8・図中央上に一ッ橋が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸大名小路絵図(嘉永二年・1849年)」(絵図右上に一ツ橋御門が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 駿河台小川町絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図上中央左方向に一ツ橋御門が描かれています。)
「国際日本文化研究センター – (内題)東京府武蔵国麹町区大手町及神田区錦町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16年・1883年)」(地図四つ切左上に一ツ橋と門が描かれています。)
カメラ位置は一ツ橋南東詰めで、カメラ東北東方向に一ツ橋門の枡形の石垣が残っています。また、カメラ西方向パレスサイド・ビルがある付近(千代田区一ツ橋1丁目1)に江戸初期・松平伊豆守信綱の屋敷があった。
カメラ南南西方向が一ツ橋門の枡形の石垣です。
松平信綱
[松平 信綱(まつだいら のぶつな)は、江戸時代前期の大名で武蔵国忍藩主、同川越藩初代藩主。老中。官位名入りの松平伊豆守信綱の呼称で知られる。
慶長元年(1596年)、徳川家康の家臣・大河内久綱の長男として武蔵国で生まれる。慶長6年(1601年)に叔父・松平右衛門大夫正綱の養子となる。慶長9年(1604年)7月17日に徳川秀忠の嫡男・徳川家光が誕生すると、7月25日に家光付の小姓に任じられて合力米3人扶持になった。
寛永5年(1628年)1月5日には相模国高座郡・愛甲郡で8,000石の所領を与えられて、合計1万石の大名となった。このときに一橋門内において屋敷を与えられた。
寛永10年(1633年)3月23日、阿部忠秋や堀田正盛、三浦正次、太田資宗、阿部重次らと共に6人衆に任命された。5月5日、阿部忠秋や堀田正盛らと共に家光より老中に任じられ、同時に1万5,000石を加増されて3万石で武蔵忍に移封された。
寛永13年(1636年)4月に家光が日光参詣に赴いた際、信綱は江戸に留まって江戸城普請監督を務め、12月の朝鮮通信使の日光参詣では惣奉行として随行した。
寛永14年(1637年)10月16日には家光を自邸に迎えて盛大に饗応した。
島原の乱
寛永14年(1637年)10月末に肥前国島原藩や肥後国天草郡などでキリシタン一揆が発生した(島原の乱)。信綱ら首脳陣は当初、板倉重昌と石谷貞清を派遣し、さらに日根野吉明や鍋島勝茂、寺沢堅高、松倉勝家ら九州の諸大名に鎮圧と加勢を命じた。しかし一揆勢は原城に立て籠もって抗戦し、戦闘は長期化した。当初、幕府軍の総大将は板倉重昌であり、信綱は戸田氏鉄と共に一揆鎮圧後の仕置・戦後処理のために派遣されていた。だが寛永15年(1638年)1月1日に重昌が戦死。石谷貞清も重傷を負ったため、代わって信綱が幕府軍の総大将に就任することになった。1月11日には篭城する一揆軍に対してオランダ船のデ・ライブ号に要請して援護射撃をさせた。 1月28日に副将格の戸田氏鉄が負傷するなど一揆の抵抗も激しく、信綱は兵糧攻めに持ち込んだ。この結果、2月下旬には一揆の兵糧はほぼ尽きてしまい、2月28日までに原城を陥落させた。信綱は一揆の総大将である天草時貞の首実検を行ない曝し首とした。このとき信綱の家臣6名も戦死し、手負い103名であった。3月1日には原城を破却して捕らえた者は斬首して曝した。また松倉勝家・寺沢堅高両名も一揆を起こされた責任ありとして処罰を言い渡した。
幕藩体制の完成
戦後、一揆鎮圧の勲功を賞され寛永16年(1639年)1月5日には3万石加増の6万石で川越藩に移封された。信綱は城下町川越の整備、江戸とを結ぶ新河岸川や川越街道の改修整備、玉川上水や野火止用水の開削、農政の振興などにより藩政の基礎を固めた。島原の乱後、信綱はキリシタン取締りの強化や武家諸法度の改正、ポルトガル人の追放を行なった。またオランダ人を長崎の出島に隔離して鎖国制を完成させた。寛永15年(1638年)11月に土井利勝らが大老になると、信綱は老中首座になって幕政を統括した。寛永16年(1639年)8月に江戸城本丸が焼失すると、その再建の惣奉行を務めた。慶安元年(1648年)4月に養父の正綱が死去した際には銀100枚を賜ったが、その遺領は正綱の実子の松平正信や松平正朝に継がせて自らは拒絶した。この頃は徳川家光実父の台徳院(徳川秀忠)、生母の崇源院の法事奉行を務めている。
家綱時代
慶安4年(1651年)4月の家光没後はその息子で第4代将軍となった徳川家綱の補佐に当たり、家光没後の直後に起こった慶安の変を7月に鎮圧した。承応元年(1652年)9月に老中暗殺を目的とした承応事件も鎮圧した。明暦3年(1657年)1月の明暦の大火などの対応に務めた。
寛文2年(1662年)1月18日に病気に倒れて出仕できなくなり、嫡男の輝綱が代理として出仕した。3月16日の夕刻に老中在職のまま死去した。享年67(満65歳没)。 (wikipedia・松平信綱より)]