マーカーは一橋徳川家屋敷跡の碑と案内板です。
関連リンク – 一橋徳川家築地下屋敷跡、一橋徳川家浜町下屋敷跡、一橋徳川家下屋敷跡(十万坪)、一橋徳川家下屋敷跡(千石緑地)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP932・コマ番号510/553から一橋徳川家屋敷の変遷について記載されています。「上屋敷 一橋門内」がこの地になります。
一橋徳川家上屋敷跡
[江戸幕府8代将軍徳川吉宗の4男徳川宗尹を家祖とし、徳川将軍家に後継ぎがないときは他の御三卿とともに後嗣を出す資格を有する。家格は徳川御三家に次ぎ、所領は10万石。家名の由来となった屋敷、一橋邸は江戸城一橋門内、現在の千代田区大手町1丁目4番地付近にあった。なお、一橋家は独立した別個の「家」ではなく、「将軍家(徳川宗家)の家族」として認識されていた。一橋家は御三卿の中で将軍を唯一出し、第11代将軍徳川家斉と第15代将軍徳川慶喜が一橋家の出身である。さらに、田安徳川家第2代の徳川治察が早世し、清水徳川家初代・徳川重好が実子を残さなかった結果、18世紀末以降のほとんどの将軍と御三卿当主が一橋家の宗尹の子孫で占められることとなった。大政奉還後徳川宗家を相続した田安家出身の徳川家達も宗尹の子孫である。しかし、一橋家当主自身は短命で子を残せない者が多く、一橋家第9代当主で15代将軍となった慶喜は水戸徳川家から一橋家に養子に入った。 (wikipedia・一橋徳川家より)]
資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 一」(コマ番号25/130・右ページ「元文五年(1740)之形」絵図下に「刑部卿殿」(徳川宗尹)と描かれています。徳川宗尹は江戸幕府8代将軍徳川吉宗の四男。享保20年(1735年)、3万俵を賜り別家して一橋徳川家を創設した。元文5年(1740年)11月18日 – 江戸城一橋門内に邸を賜る。左ページ「文政十三年(1830)之形」に「兵部卿殿」(徳川斉礼)と描かれています。コマ番号26/130・右ページ「天保五年(1834)・七年(1836)之形」に「民部卿殿」(徳川斉位)と描かれています。左ページ「当時之形(元文元年・1736年)」に「一橋殿」(徳川斉位)と描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸大名小路絵図(嘉永2年・1849年)」(絵図右端中央に「一橋殿」上屋敷が描かれています。)
「[御大名小路辰之口辺図] / 高柴三雄 誌(嘉永2[1849])」・「bunko01_01854_p0001.jpg」
「国立国会図書館デジタルコレクション – (内題)東京府武蔵国麹町区八重洲町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図中央左・「陸軍病馬院」「元衛町」「陸軍軍馬局」が一橋徳川家上屋敷跡です。)
「東都歳事記」・元旦諸侯御登城図.jpg(絵は平川門前あたりからの絵で、上方向の屋敷が酒井雅楽頭家上屋敷で、左の屋敷が一橋徳川家上屋敷です。)
「東都歳事記. 巻之1-4,附録 / 斎藤月岑 編纂 ; 長谷川雪旦 図画 ; 松斎雪堤 補画」・「元旦諸侯御登城図」(1-11)
カメラ北東方向が現気象庁で、気象庁の敷地を含む、神田橋門、一橋門にかけての一画が、一橋徳川家上屋敷跡です。
カメラ位置は丸紅東京本社ビル前で、カメラ東南東方向に一橋徳川家屋敷跡の碑と案内板があります。(2016年3月画像)