遠藤但馬守上屋敷跡(三菱一号館美術館)

マーカーは三菱一号館美術館です。

遠藤但馬守上屋敷跡
[桜田門外の変において、有村次左衛門は刀の切先に井伊直弼の首級を突き立てて引き揚げた。有村の勝鬨の声を聞いて、浪士らは本懐を遂げた事を知った。が、急ぎ彼らが現場を立ち去ろうとしたとき、斬られて昏倒していた目付助役の彦根藩士・小河原秀之丞がその鬨の声を聞いて蘇生し、主君の首を奪い返そうと有村に追いすがり、米沢藩邸前辺りで有村の後頭部に斬りつけた。水戸浪士・広岡子之次郎らによって小河原はその場で斬り倒されたが、現場に隣接する杵築藩邸の門の内側から目撃した人物の表現によると、小河原が朦朧と一人で立ちあがった直後、数名の浪士らから滅多微塵に斬り尽くされた有様は目を覆うほど壮絶無残だったという。一方、この一撃で有村も重傷を負って歩行困難となり、直弼の首を引きずっていった。しばらくの逃走の後、有村は若年寄遠藤胤統 (近江三上藩)邸の門前で自決した。これにより、直弼の首は遠藤家に収容されることになった。
直弼の首は前述の遠藤胤統邸に置かれていた。所在を突き止めた井伊家の使者が返還を要請したが、遠藤家は「幕府の検視が済まない内は渡せない」と5度までも断り、その使者を追い返した。そこで井伊家、遠藤家、幕閣が協議の上で、表向きは闘死した藩士のうち年齢と体格が直弼に似た加田九郎太の首と偽り、内向きでは「遠藤家は負傷した直弼を井伊家に引き渡す」という体面を取ることで貰い受け、事変同日の夕方ごろ直弼の首は井伊家へ送り届けられた(遠藤胤統は現役の幕閣であり、彦根の近隣の藩主でもあることから有名な直弼の顔を家中もよく知っており、実際には気付いていた可能性が高い)。その後、井伊家では「主君は負傷し自宅療養中」と事実を秘した届を幕閣へ提出、直弼の首は彦根藩邸で藩医・岡島玄建により胴体と縫い合わされた。  (wikipedia・桜田門外の変より)]

三菱一号館美術館
[三菱一号館美術館は、東京都千代田区丸の内にある美術館。総合デベロッパー三菱地所が運営する企業博物館で、同館の建物は丸の内最初の洋風貸事務所建築として明治時代に建てられ、1968年(昭和43年)3月に三菱地所により解体された、(旧)三菱一号館を同社が2009年(平成21年)レプリカ再建したものである。2010年(平成22年)4月6日に正式開館、開館記念展として『マネとモダン・パリ』を開催した。
19世紀の近代美術を中心とする美術館で、企画展を年間3~4回開催する。常設展示は設けられていないが19世紀末の美術品を収蔵しており、特にロートレック作品を多く所蔵する。
展示室は館内の1~3階に分かれて配置されており、建造物の構造的な制約により平均40m²の比較的小さい展示室が20室連なる特異な構成となっている。
三菱一号館美術館・wikipedia-photo  (wikipedia・三菱一号館美術館より)]

資料リンク
東京都立図書館 – 江戸曲輪図(文政[1818-1830])」(絵図四つ切左下・「神田橋御門」下に「遠藤但馬」と描かれています。また、「常盤橋御門」内に遠藤胤統の生家である「戸田采女(戸田氏教)」上屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸大名小路絵図(嘉永2年・1849年)」(馬場先御門通りの大名小路角・右上に遠藤但馬守上屋敷(遠藤胤統)が描かれています。)

[御大名小路辰之口辺図] / 高柴三雄 誌(嘉永2年・1849年)」・「bunko01_01854_p0001.jpg」(絵図中央上方向・大名小路下に「若年寄 遠藤但馬守」(遠藤胤統)と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸大名小路絵図(安政7年・1860年)」(馬場先御門通りの大名小路角・右上は白地となり、遠藤但馬守上屋敷(遠藤胤統)は「御城」下に描かれています。屋敷替えがあったと思われます。)

三菱一号館美術館 – Google Map 画像リンク

カメラ北北西方向が2009年レプリカ再建された三菱一号館美術館です。

遠藤胤統
[遠藤 胤統(えんどう たねのり)は、近江三上藩の第5代藩主。三上藩遠藤家10代。江戸幕府若年寄を務めた。
経歴
寛政5年(1793年)11月22日、美濃大垣藩の第7代藩主・戸田氏教の三男として江戸呉服橋の戸田屋敷で生まれる。享和元年(1801年)12月8日、三上藩の第4代藩主・遠藤胤富の養子となる。文化6年5月15日、将軍徳川家斉に拝謁する。文化8年(1811年)6月23日に胤富が病で隠居したため家督を継ぎ、12月11日に従五位下・但馬守に叙位・任官する。
文化9年(1812年)2月3日に江戸城田安門番に任じられ、4月17日に日光祭祀奉行に任じられる。その後も大坂城青屋口加番、江戸城馬場先御門守衛、大坂城雁木坂加番、大坂城玉造口定番など諸役を歴任した。
天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱の際には玉造口定番を務めていた。京橋口定番は米倉昌寿であったが未だ着任していなかったため、胤統が両口の守備を兼務し、大坂城代土井利位の下で鎮圧に功績を挙げた。大久保忠真松平乗寛水野忠邦の三老中連署の感状が贈られ、将軍徳川家斉からは鞍鐙が下賜された。
第11代将軍・徳川家斉と第12代将軍・家慶の双方から信を受けて天保12年(1841年)8月10日、若年寄に任じられ、嘉永4年(1851年)まで10年間務めた。嘉永5年(1852年)12月25日、江戸城御勝手掛および西ノ丸造営奉行、海岸防御筋御用掛を命じられ、2000石の加増を受けて領地は計1万2000石となる。
幕末期の幕政にも参与し、徳川将軍家の諸大名との婚姻の事務関係の処理を務め、ロシアとの領土交渉や、第14代将軍・徳川家茂和宮の婚姻をまとめる功も挙げている。和宮の関東御下向の際には、婚姻大礼御用掛を勤めた。
安政元年(1854年)内海台場築造用掛(お台場)を命じられ、万延元年(1860年)4月15日には城主格に任じられ、本丸造営御用掛に就任、5月には国益主法御用掛、外国貿易筋御用掛に就任した。
安政6年(1859年)、ロシアの東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーが、自ら軍艦7隻を率いて江戸湾の品川に来航。樺太全土は露領と威嚇、主張したが、同年7月26日、虎ノ門天徳寺における江戸幕府とムラヴィヨフの会談の席上、幕府は外国事務掛の胤統と酒井忠毗を通してこれを完全に退けた。
万延元年(1860年)7月、老齢を理由に諸役を免ぜられたが、文久元年(1861年)4月16日、軍制用掛・陸海軍備向に任じられた。7月15日に従四位下に昇叙され、7月19日には民部大輔に遷任された。この官位は1万石クラスの大名としては異例の高位である。
文久3年(1863年)10月7日、老齢を理由に隠居を許され、家督を三男の胤城に譲って引退。それでもなお、元治元年(1864年)12月19日には中務大輔に遷任するなど、幕府の信は厚かった。
明治3年(1870年)9月25日に死去。享年78。  (wikipedia・三上藩より)]

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