マーカーは和田倉噴水公園です。
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会津藩松平家
[会津藩(あいづはん)は、陸奥国(後の岩代国)会津郡を中心に現在の福島県西部と新潟県の一部を治めた藩。藩庁は若松城(会津若松市)。最大版図は陸奥国北会津郡、耶麻郡、河沼郡、大沼郡及び越後国東蒲原郡。
保科正之の時代
加藤氏改易後の寛永20年(1643年)、出羽国山形藩より3万石加増の23万石で保科正之が入封し、以後会津藩は会津松平家(保科家)の支配が定着する。会津松平家は幕末までに内高は40万石を突破して、表高より内高が下回ることすらあった徳川御三家の水戸藩より実収入が多い藩となり、藩の軍事力もこれを上回っていた。また、南山御蔵入領5万石も預かり地として任されたが、実質的には会津藩領同様に扱われており、実質28万石といってよかった(28万石では御三家の水戸藩を超えてしまうことからの配慮のためであるとされる)。
保科正之は第2代将軍徳川秀忠の落胤で、第3代将軍徳川家光の異母弟である。家光の信頼を受けて幕政に重きをなした。家光没後、11歳の嫡子徳川家綱が第4代将軍になると、正之は叔父として後見を務めた。正之は大老として江戸で幕政を統括したため、会津に帰国したのは正保4年(1647年)と晩年の数年間のみであった。この間、正之は幕政において明暦の大火における対策で敏腕を発揮しているが、藩政でも手腕を発揮して正之の時代に会津藩の藩政はほぼ確立された。なお、正之は山形藩主時代に保科家の家宝類を保科家の血を引く保科正貞に譲って、徳川一門として認められており、正之は幕府より葵紋の使用と松平姓を称することを許されていたが、正之は保科家の恩義と家臣に対する心情を思いやって辞退した。
保科から松平への改姓
正之の没後、藩主の座は子の保科正経、そしてその弟の保科正容が継いだ。正容の時代に姓を松平に改めて葵紋の使用も許され、名実共に徳川一門としての会津松平家が誕生した。この時、歴代藩主の通字も保科家の「正」から「容」に改められることになった。家格は親藩・御家門で、家紋は会津葵を用いた。旗印は漢字1文字で「會」である。
幕末
第8代松平容敬は養子藩主であったが、英明な藩主で自ら親政して改革を行ない、幕末における会津藩の基礎を築き上げている。容敬は嘉永5年(1852年)2月に死去し、松平容保が第9代藩主を継いで幕末の動乱期を迎えた。安政6年(1859年)、北方警備のため幕府から根室・紋別を譲渡される。文久2年(1862年)閏8月に容保は京都守護職となり、更に新撰組を麾下に置いて(新撰組は、その後会津戦争まで会津藩の隷下にあった)会津藩士ともども尊攘派志士の取り締まりや京都の治安維持を担った。そして禁門の変では、孝明天皇を奪取しようとした長州藩勢から御所を守り抜いた。後に容保は、会津藩を頼りとしている旨が記された「御宸翰(ごしんかん)」を孝明天皇より賜った。慶応2年12月(1867年1月)に孝明天皇が崩御すると、既に薩長同盟を締結していた薩摩藩、長州藩との対立が激化した。大政奉還、王政復古を経て慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発した。会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、新政府軍の仇敵となった。この戦いで、明治天皇を奉じる新政府軍により、会津藩には孝明天皇よりの御宸翰があったにもかかわらず朝敵とされたのである。会津藩は奥羽越列藩同盟の支援を受け、庄内藩と会庄同盟を結ぶなどして新政府軍に抵抗したが、会津若松城下での戦い(会津戦争)に敗北して降伏した。近年では、列藩同盟総裁中将の役職に松平容保が就いていたとする説もある。なお、戊辰戦争直前には、庄内藩とともに、当時のプロイセン王国との提携を模索していことが分かった。降伏により、会津藩領は会津松平氏から没収された。藩主の容保は鳥取藩預かりの禁錮刑となった。明治2年(1869年)に容保の嫡男松平容大は家名存続が許され、陸奥国斗南(青森県むつ市)に斗南藩を立てた。一方、会津地方は廃藩置県を前に、明治政府民政局による直轄地となった。その後若松県となったものの、明治9年(1876年)には福島県に合併された。 (wikipedia・会津藩より)]
和田倉噴水公園
[和田倉地区にある噴水公園は継続性と新たな発展をテーマとしており、民間協力も得て、皇太子殿下のご成婚を機に平成7年に完成したもので、今上天皇のご成婚を記念して昭和36年に完成した高さ8.5mに吹き上げる大噴水を再整備し、新しく造られた高さ5.5m、長さ30mの落水施設やモ二ュメン卜とを流水施設で結んでいます。また、夜は噴水のライトアップをしており、昼間とは違った幻想的な水の風景を見せてくれます。 (「和田倉噴水公園 || 皇居外苑[環境省]」より)]
資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 新板江戸大絵図(出版年月日・寛文10[1670]刊」(絵図中央・外桜田門下に「保科チクゼン」(保科正経)と記述されています。この後、絵図四つ切右下・御城下「酒井雅樂」と記述されている場所に屋敷替になるようです。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – [新板江戸大絵図](出版年月日・[元禄11 (1698)」[コマ番号3/4・絵図中央「御本丸」下「酒井雅樂守」屋敷があった場所に「保科肥後守」(保科正容=松平正容)屋敷が描かれ、その右方向現在の神田小川町3丁目付近に「酒井河内守」(酒井忠挙)屋敷が描かれています。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 元禄江戸大繪圖(出版年月日・宝永4[1707]」(コマ番号4/5・絵図四つ切右上、御城大手下馬下「酒井雅樂守」屋敷があった場所に「保科肥後守」(松平正容)屋敷が描かれ、その右方向現在の神田小川町3丁目付近に「酒井ウタ」(酒井忠挙・酒井忠相)屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 分間江戸大繪圖(出版年月日・正徳2 [1712]」(コマ番号4/5・絵図四つ切左上、「ワタグラ」上に「松平肥後守」(松平正容)上屋敷が描かれ、御城大手下馬下には「酒井雅樂守」が戻っています。)
「東京都立図書館 – 江戸曲輪図(文政[1818-1830])」(絵図中央「御城」左上に「松平肥後」と描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸大名小路絵図(嘉永2年・1849年)」(絵図中央右方向・堀右の橋が「和田倉御門」で、その上と左上に「松平肥後守中屋敷」と「松平肥後守上屋敷」が描かれています。)
「[御大名小路辰之口辺図] / 高柴三雄 誌(嘉永2年・1849年)」・「bunko01_01854_p0001.jpg」
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御曲輪内大名小路絵図(嘉永2[1849]/慶応元[1865]改正再版)」(絵図中央右方向・堀右の橋が「和田倉御門」で、その上と左上に「松平肥後守中屋敷」と「松平肥後守上屋敷」が描かれています。)
「東京図測量原図 : 五千分一 – (内題)東京府武蔵国麹町区八重洲町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図左上・「東京衛生主衛」「陸軍調場局」が松平肥後守上屋敷跡で、「内務省図書館」が中屋敷跡です。)
カメラ南南東方向に会津藩松平家上屋敷が、北北東方向(現在の和田倉噴水公園)に中屋敷があった。
カメラ位置は和田倉噴水公園内です。