伝奏屋敷跡(玉川上水樋管・日本工業倶楽部会館)

マーカーは伝奏屋敷跡(日本工業倶楽部会館)です。

伝奏屋敷跡
[江戸の頃、ここには、朝廷勅使、院使などが江戸下向に際しその宿舎とした伝奏屋敷がありました。勅使の滞在中、伝泰御馳走役を命じられた大名は、ここで高家の指南を受けながら勅使の世話をした。有名な「松の廊下の刃傷事件」で切腹した浅野内匠頭長矩が命じられたのも、この伝泰御馳走役で、この時の高家が吉良上野介。 (「旅猫江戸日記-江戸城・大名小路」より)]

玉川上水樋管
玉川上水留. [42] 玉川上水西丸下御厩掛并伝奏屋敷掛共外樋枡御普請一件 嘉永三戌年三月より十一月迄 分冊ノ一」(41/91・和田倉門、伝奏屋敷周辺の玉川上水樋管が描かれています。42/91・伝奏屋敷内の玉川上水樋管が描かれています。44/91・外桜田門周辺と和田倉門、伝奏屋敷周辺の玉川上水樋管が描かれています。)
玉川上水留. [45] 玉川上水西丸下御厩掛并伝奏屋敷掛共外樋枡御普請一件 嘉永三戌年三月より十一月迄 分冊ノ四」(29/99・伝奏屋敷内の玉川上水樋管が描かれています。30/99・和田倉門周辺の玉川上水樋管が描かれています。)

日本工業倶楽部会館
[日本工業倶楽部創立後直ちに建設が計画され、1920年(大正9年)11月、地上5階、鉄筋コンクリート造、一部鉄骨造の会館が 丸の内の旧伝奏屋敷跡に完成した。設計は横河民輔ファサード松井貴太郎、インテリアは橘教順と鷲巣昌が担当した。日本における数少ない本格的なセセッション様式であり、全体に「雅にして堅」を旨とし、国賓を迎えることを考慮して、正面玄関にはドーリア式オーダーのエントランス・ポーチが配され、正面階段も広くとられた。正面屋上には小倉右一郎作の二つの人像が置かれ、戦前の日本経済の中心であった石炭(ハンマーをもった男性)と紡績(糸巻きを持つ女性)を表現している。日本工業倶楽部の事務局が置かれ、戦後はかなりの間、経団連、日経連、経済同友会も事務局を置いていた。1999年8月23日、登録有形文化財として登録されたが、老朽化のため、2003年3月に会館の南側部分を保存・再現したうえで建て替え、三菱信託銀行本店ビルとして竣工した。
日本工業倶楽部会館・wikipedia-photo

日本工業倶楽部会館の内部ー階段・wikipedia-photo

  (wikipedia・日本工業倶楽部より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸大名小路絵図(嘉永二年・1849年)」(絵図右下道三橋左上方向に伝奏屋敷と描かれています。)

[御大名小路辰之口辺図] / 高柴三雄 誌(嘉永2[1849]年)」・「bunko01_01854_p0001.jpg

東京図測量原図 : 五千分 – (内題)東京府武蔵国麹町区八重洲町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図上中央・東京鎮台歩兵営の左の建物が伝奏屋敷です。)
東京図測量原図 : 五千分 – (内題)東京府武蔵国麹町区大手町及神田区錦町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図下中央・東京鎮台歩兵営の左の建物が評定所跡です。)

カメラ位置は都道402号(大名小路)/407号線交差点で、北北西方向が伝奏屋敷跡(現日本工業倶楽部)になります。(伝奏屋敷跡範囲:千代田区丸の内1丁目3,4)