八代洲河岸定火消屋敷跡(「この附近の江戸時代」案内板・玉川上水樋管)

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マーカーはカメラ位置です。

八代洲河岸定火消屋敷跡
[1.八代洲河岸(やよす-がし。千代田区丸の内2-1馬場先門角、明治生命館)
 八重洲(やえす)と言えばJR東京駅の八重洲口を真っ先に思い浮かべます。そうです、中橋の加賀屋佐吉から使いが来る落語「金明竹」の舞台がそうです。しかし、それは誤解で、正確には「八代洲河岸」と呼ばれた馬場先濠の河岸を言います。ここの定火消しは馬場先門交差点角にある重要文化財に指定された、昭和9年建築「明治生命館」(明治安田生命保険相互会社ビル)がそれです。  (「第156話落語「火事息子」(かじむすこ) 」より)]

[歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) – 安政5年9月6日(1858年10月12日)は、八代洲河岸定火消し同心の安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となった。  (wikipedia-歌川広重より)]

[幕末にかけての武家火消の活動
享保の改革による町火消の確立後、幕末にかけて江戸の消防体制は武家火消主体から町火消主体へと移行していく。元文元年(1736年)以降、方角火消は江戸城風上の火事か大火の場合のみ出動と改められる。寛政4年(1792年)には、定火消が町人地へ出動しないことになった(風の強い日に起きた火事のみは例外であった)。文政2年(1819年)には定火消の出動範囲が江戸の郭内に限定され、郭外は町火消の担当となった。こうした武家火消の出動範囲減少は、町火消の能力が幕府に認められたためであった。
黒船来航から2年後の安政2年(1855年)、定火消が2組削減されて8組となる。文久2年(1862年)には方角火消と火事場見廻役が廃止され、所々火消も削減されて担当が11箇所から3箇所となった。慶応2年(1866年)には定火消8組が半減されて4組に、翌慶応3年には1組128名のみの構成となり、江戸の消防体制は町火消へ全面的に依存するようになる。この定火消の大幅な削減は、幕府の洋式軍備拡大が原因であり、大名火消の削減は文久の改革による参勤交代の緩和が原因であった。
明治元年(1868年)、新政府によって武家火消はすべて廃止され、代わりの消防組織として火災防御隊が設けられた。火災防御隊は兵部省に所属し、皇城(江戸城)の消防を担当すると定められたが、翌年には廃止されている。  (wikipedia・火消より)]

玉川上水樋管
玉川上水留. [60] 玉川上水八代州河岸火消御役屋敷掛樋枡井戸共御修復一件 安政三辰年(1856年)五月」(24,25,68,70/94・馬場先門前定火消上田豊之助役宅内の玉川上水樋管が描かれています。45,46/94・馬場先門前の玉川上水樋管が描かれています。)

資料リンク
東京都立図書館 – 江戸曲輪図」(文政[1818-1830]・絵図四つ切左上、馬場先御門左方向に「定火消」と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸大名小路絵図(嘉永2年・1849年)」(絵図中央左方向・「馬場先御門」右下に「定火消御役屋敷 松平采女」と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 一之二(文久元年・1861年)」(絵図中央右方向・「馬場先御門」上に「火消御役屋敷」が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 一」[コマ番号73/130(延宝・1673年-1681年、元禄・1688年-1704年)、74/130(元禄14年・1701年、明和9年・1772年)、75/130(寛政12年・1800年、文化元年・1804年)、76/130(文化10、14年・1813年、1817年、文久元年・1861年)-絵図下に「火消御役屋敷」が描かれています。]

「[御大名小路辰之口辺図] / 高柴三雄 誌」・「bunko01_01854_p0001.jpg

カメラ東北東方向に「この附近の江戸時代」案内板があります。道路西側に八代洲河岸定火消屋敷があった。また、この道路は江戸期にはなかった。

定火消
[定火消(じょうびけし、江戸中定火之番)は、万治元年(1658年)にはじまる江戸幕府直轄の火消。明暦の大火の翌年、4000石以上の旗本4名(秋山正房・近藤用将内藤政吉町野幸宣)を選び、それぞれに与力6名・同心30名を付属させて設けられた。幕府直轄の消防組織であり、若年寄の所管、菊間詰の役職であった。4名の旗本には専用の火消屋敷と火消用具を与え、臥煙と呼ばれる専門の火消人足を雇う費用として300人扶持を加算した。 4箇所の火消屋敷はそれぞれ御茶ノ水・麹町半蔵門外・飯田町・小石川伝通院前に設けられ、すべて江戸城の北西であった。この屋敷の配置は、冬に多い北西の風による、江戸城延焼を防ぐためである。宝永元年(1704年)以降は10組(定員1280名)での編成となる。 このため、総称して十人屋敷や十人火消などとも呼ばれた。10箇所の火消屋敷の場所は、赤坂溜池・赤坂門外・飯田町・市谷左内坂・小川町・御茶ノ水・麹町半蔵門外・駿河台・八重洲河岸・四谷門外であった。定火消を命じられた旗本は、妻子とともに火消屋敷で居住した。火消屋敷は約3000坪の広い敷地を持ち、緊急出動用に馬も準備されていた。敷地内には3丈(約9.1m)の火の見櫓が設けられ、合図のため太鼓と半鐘がそなえられていた。この火消屋敷が、現在の消防署の原型である。屋敷内には臥煙の寝起きする詰所があり、夜には長い1本の丸太を枕として並んで就寝した。夜に火事の連絡が入ると、不寝番がこの丸太の端を槌で叩き、臥煙を一斉に起こして出動した。 出動に当たっては火事装束を身につけ、番を先頭に立て、騎馬の定火消と与力、続いて同心に臥煙という順番で隊列を組み、火事場に向かった。  (wikipedia-火消より)]

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