北の丸(北の丸公園)

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    北の丸
    [もともと太田道灌らが江戸城を築城した際に、関東の守護神でもあった築土神社(旧田安明神)の旧地であり、のち、徳川家康が入府(1590年)した際に、関東代官であった内藤清成らの屋敷となったため、代官町と呼ばれた場所である。その後、徳川忠長(1606年 – 1634年)や徳川綱重(1644年 – 1678年)らの屋敷を経て、明暦の大火(1657年)以後は火除け地になっていたが、8代将軍である徳川吉宗(1716年 – 1745年)が就任してからは徳川氏御三卿であった田安徳川家が1731年に、清水徳川家が1759年に上屋敷を構えるようになった。敷地内には御蔵地や植溜御用地、馬場などもあった。
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    [江戸時代のはじめ、このあたりは関東総奉行内藤清成(ないとうきよなり)らの屋敷となり、代官町と呼ばれるようになりました。その後、3代将軍徳川家光の弟、駿河府中藩主徳川忠長や春日局、家光の次男松平長松(のちの甲斐国甲府藩主徳川綱重などの屋敷となりました。さらに享保16年(1731)に8代将軍吉宗の次男徳川宗武(御三卿田安家)、宝暦8年(1758)には9代将軍徳川家重の次男徳川重好(御三卿清水家)がそれぞれ上屋敷を与えられています。安政3年(1856)には、この絵図(「江戸城北の丸 : 大江戸歴史散歩を楽しむ会」より画像リンク)にも見られるように田安家・清水家上屋敷のほかに御蔵地(おくらち)、植溜御用地(うえだめごようち)、馬場などがありました。
    明治維新後、田安家・清水家の上屋敷は一時御用邸となり、その後は近衛歩兵営用地となりました。近衛歩兵営では明治11年(1878)、日本初の兵士反乱事件「竹橋事件」が起きています。
    明治8年(1875)、ここは東代官町、西代官町となりました。そして明治12年(1879)、二つの町が合併して新たに代官町と改称しました。
    第二次世界大戦後は、森林公園として整備が進められ、昭和42年(1967)、住居表示の実施により北の丸公園と改められました。名称はかつての江戸城北の丸にあたることに由来します。
    公園は、昭和天皇の還暦を記念して昭和44年(1969)に開園し、園内には日本武道館科学技術館(https://goo.gl/maps/AFrQKagiHCr)、国立公文書館(https://goo.gl/maps/n3nH49wDiwQ2)、東京国立近代美術館東京国立近代美術館工芸館などがあります。また石垣には国指定天然記念物ヒカリゴケ生育地もあり、都心のオアシスとして親しまれています。  (「千代田区 町名由来板ガイド:北の丸公園(きたのまるこうえん)」より)]

    資料リンク
    武州豊嶋郡江戸〔庄〕図 – 国立国会図書館デジタルコレクション(1624年 – 1643年)」(絵図右上に北の丸が描かれています。)

    [御大名小路辰之口辺図] / 高柴三雄 誌」・ 「請求記号:文庫01_01854 5カット – 5

    北の丸公園 – Google Map 画像リンク

    カメラ北方向が日本武道館です。

    北の丸公園四阿前のカメラです。

    カメラ位置は北の丸公園中央部付近の散策路です。

    カメラ位置は北の丸公園中の池の北側にある橋です。

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