マーカーは北桔橋門です。
江戸城配置図(内郭)(拡大図)
北桔橋門(きたはねばしもん)
[天守台の北側にある北桔橋(はねばし)門である。本来は、枡形門形式であったが、現在は一の門の高麗門だけが復元されている。ここは本丸の搦手(城の後ろ側)にあたり、北ノ丸のある田安台地とをつなぐ橋で、有事には橋を跳ね上げて敵を遮断できる構造になっていた。 (「街道写真紀行・江戸城」より)]
[北桔橋門の両袖には、白い築地塀が残されていて、天守閣の背後の守りの重要性を感じます。このあたりの石垣は、江戸城の城壁の中で、最も高く(18.5m 内外)堅牢に野面積み(のづづみ)という工法が用いられていますが、これは、自然石をそのまま積み上げるため、隙間が多く見た目には崩れそうですが、地震に対して最も強いとされています。また、平川濠には、美しく幾重にも入り込む屈折箇所が見られますが、これは、直線が長すぎると強度が落ちるために使われる「ひずみ」という工法です。さらに、角の稜線部は、長方形の角石を交互に積み上げて、全体に扇型のそりをつけ、力を両側の稜線方向から内側方向にかけあって強度の安定性を高める、算木積工法がとられています。 (「北の丸公園の魅力(1) | 皇居外苑 | 一般財団法人国民公園協会」より)]
玉川上水樋管
「玉川上水留. [47] 玉川上水代官町土手上迄御本丸掛樋枡場所替御普請一件 嘉永六丑年正月より同十一月 分冊ノ一」(36,37/83・半蔵門と北詰門の中間、西番所周辺の玉川上水樋管が描かれています。)
「玉川上水留. [50] 玉川上水代官町土手上迄御本丸掛樋枡場所替御普請一件 嘉永六丑年正月より同十一月 分冊ノ四」(62,63/96・半蔵門と北詰門の中間、西番所周辺の玉川上水樋管が描かれています。)
「玉川上水留. [11] 玉川上水代官町土手上御本丸掛矢来枡弐之枡樋筋御普請一件 天保九戌年正月より十月 御普請方 分冊ノ一」(27,28/73・北桔橋前の代官町土手方面からの玉川上水樋管が描かれています。)
「玉川上水留. [13] 玉川上水代官町土手上御本丸掛矢来枡弐之枡樋筋御普請一件 天保九戌年正月より十月 御普請方 分冊ノ三」(87,88/96・北桔橋前の代官町土手方面からの玉川上水樋管が描かれています。)
「玉川上水留. [14] 玉川上水代官町土手上御本丸掛矢来枡弐之枡樋筋御普請一件 天保九戌年正月より十月 御普請方 分冊ノ四」(61/86・北桔橋前の代官町土手方面からの玉川上水樋管が描かれています。)
「玉川上水留. [33] 玉川上水御本丸掛代官町土手上より北拮橋外迄矢来弐之枡樋筋御普請一件 嘉永元申年正月より十一月迄 分冊ノ一」(26,27/65・北桔橋前の代官町土手方面からの玉川上水樋管が描かれています。)
「玉川上水留. [34] 玉川上水御本丸掛代官町土手上より北拮橋外迄矢来弐之枡樋筋御普請一件 嘉永元申年正月より十一月迄 分冊ノ二」(35,36/67・北桔橋前の代官町土手方面からの玉川上水樋管が描かれています。)
「玉川上水留. [36] 玉川上水御本丸掛代官町土手上より北拮橋外迄矢来弐之枡樋筋御普請一件 嘉永元申年正月より十一月迄 分冊ノ四」(52~54/112・北桔橋前の代官町土手方面からの玉川上水樋管が描かれています。)
(幕末から明治初年の北桔橋門・ファイル:北桔橋門.jpg)
カメラ南南東方向に北桔橋門があります。
北桔橋門前のカメラです。
北桔橋門のカメラです。