南町奉行所

マーカーは南町奉行所石垣を再利用した広場石垣です。

町奉行所の変遷

南町奉行所
[2004年に千代田区教育委員会が遺跡確認の試掘調査を行い、その結果南町奉行所などの遺跡の存在が確認され、 2005年4月より発掘調査を本格的に実施しました。発掘調査では、江戸時代はじめの大名屋敷跡や1707年以降この地に置かれた南町奉行所跡が発見され、「堀」「信濃」(飯田藩)「井伊」(彦根藩)「大岡」 といった調査地点に屋敷を構えた大名の名が書かれた荷札など、屋敷内での生活を彷彿とする多数の遺物が出土しました。特に南町奉行所の遺跡は、屋敷の表門から 裁判を執行する役所部分に該当し、石組の溝や井戸、土蔵の跡などが発見され、書物所の穴倉(地下室)から「大岡越前守様御屋敷」と書かれた札など貴重な資料が出土しました。  (「有楽町歴史絵巻 – 有楽町イトシア」より)]

[東京都指定旧跡
   南町奉行所跡
 江戸町奉行は、寺社奉行勘定奉行とともに徳川幕府の三奉行のひとつでした。その職掌は、江戸府内の行政・司法・警察など多方面に及び、定員二名で南北両奉行に分かれ月番で交代に執務していました。名奉行大岡越前守忠相は、享保2年(1717)から元文元年(1736)にかけて南町奉行としてここで執務をしていました。
 南町奉行所は、宝永4年(1707)に常盤橋門内から数寄屋橋門内に移転し、幕末までこの地にありました。その範囲は、有楽町駅および東側街区一帯にあたり、平成17年の発掘調査では、奉行所表門に面した下水溝や役所内に設けられた井戸、土蔵などが発見されました。また、「大岡越前守御屋敷」と墨書きされた荷札も出土しました。
 再開発事業では、石組下水溝の一部をここに再現するとともに、石材を事業所内でベンチなどに活用しています。
 所在地  千代田区有楽町二丁目 旧跡指定 大正7年4月 平成19年(2007)10月 千代田区  (「TOKYO MONUMENT 〜トウキョウ・モニュメント〜 : 南町奉行所跡」より)]

[南町奉行所跡から発見された穴蔵
 この板枠(画像リンク)は、ここの再開発に伴う遺跡発掘で発見された「穴蔵」を、壁に立てて展示したものです。この穴蔵は、江戸時代中期の南町奉行所内に掘られてた地下室で、なかから伊勢神宮神官が大岡忠相の家臣に宛てた木札が出土しました。また遺構両脇の木製ベンチには江戸時代の水道管(木樋)を、向かいの石のベンチには奉行所の石組材を再利用しました。
 穴蔵の構造は、厚い板材を舟釘で留め、隠し釘となるように端材を埋め、板材の間には槙肌(木の皮)を詰めて防水処理をしています。また、壁板の一辺には水抜き穴があき、そこから竹管が延びて桶に水が溜まる構造となっています。
 ここがかつて町奉行大岡越前守がつとめた南町奉行所(東京都旧跡)であったことや、江戸時代の技術などを伝えるために設置しました。 『南町奉行所跡案内板』より  (「南町奉行所」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸大名小路絵図」(絵図左下・数寄屋橋御門右に南町奉行所が描かれています。)

「[御大名小路辰之口辺図] / 高柴三雄 誌」・「bunko01_01854_p0001.jpg

(内題)東京府武蔵国麹町区八重洲町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)明治16・1883年」(地図下・数寄屋橋門上の建物群が元南町奉行所と思われます。)

「国立国会図書館デジタルコレクション」 – 「町奉行官宅」、「町奉行役宅」、「町奉行役宅図」、「町奉行所図」、「町奉行所図

天保十三寅年二月 南町奉行所住居向絵図面 | 江戸雑記録

南町奉行所跡 – Google Map 画像リンク

カメラ位置は有楽町イトシア前広場で、カメラ北西方向に南町奉行所跡碑があり、碑の左に史跡プレートと遺構石垣の一部が利用したベンチがあります。また地下広場に遺構が展示されている。

カメラ位置は地下広場で、カメラ東南東方向・板枠が南町奉行所遺構展示物です。遺構両脇のベンチに江戸時代の水道管(木樋)が再利用されています。