呉服橋跡案内板(玉川上水樋管)

マーカーは呉服橋跡案内板です。

呉服橋(呉服橋交差点)
[現在の大和証券ビルは濠を埋め立て建てたビルである。今は橋跡、門跡の名残はどこにも見当たらない、この辺りはビル開発が進み巨大なビルが建ち並んでいる。門前の濠は外濠であったが、埋め立てられ地下に首都高速八重洲線が走り一部はビルが建っている。名の由来は、江戸幕府呉服御用達後藤縫殿助(ぬいのすけ)の屋敷があったのでこの名がついたという。古くは舟口、呉服橋、後藤橋門などと呼ばれていたと伝えられている。寛永年(1629)奥羽諸候により建造された。明暦の大火後、万治2年(1659)再建された。喰違枡形門であったが、明治六年(1873)十月撤廃されてしまった。  (「呉服橋門跡」より)]

[呉服橋跡
以前、ここには外堀があり、江戸城の外郭門(がいかくもん)の一つ呉服橋門(ごふくばしもん)がありました。そして、門に付属する橋である呉服橋が架けられました。
「御府内備考(ごふないびこう)」という史料の「呉服橋御門」の項には、橋の由来が次のようにあります。
『古くは後藤橋といへり。【寛永中江戸絵図】呉服町へ出る御門なれば呉服橋と唱へ来れりと。【江戸紀聞】今按に、寛永の頃後藤橋と称せしものは、御門外に呉服師後藤が宅地あるよりの私の呼称なるべし。(後略)』
これによれば、呉服橋と呼ぶのは呉服町へ出る門に架かるためで、また寛永(1624~43)頃に後藤橋と呼んだのは門外に呉服師の後藤家の屋敷があったためとしています。
なお、外堀が昭和二十九年(1954)頃から埋め立てられたため、呉服橋も含め外堀沿いの橋は次第に姿を消していきました。
平成九年三月 千代田区教育委員会》  (「呉服橋跡 – Monumento(モニュメント)」より)]

玉川上水樋管
玉川上水留. [18] 玉川上水呉服橋御門大番所掛樋枡御普請一件 天保十一子年四月」(31/88・呉服橋門内の玉川上水樋管が描かれています。)

呉服橋資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸城見附図 2巻. [2]」(コマ番号11-14/68・呉服橋御門)

国立国会図書館デジタルライブラリー – 飯田町堀留より数寄屋橋御門外迄御堀浚道造出来形絵図」(コマ番号5/8・図左に呉服橋が描かれています。)

武州豊嶋郡江戸〔庄〕図 – 国立国会図書館デジタルコレクション(1624-1643・寛永(1624-645)年間」[絵図中央下に十本の船入堀が描かれ、中央の舟入が紅葉川で、紅葉川が接続する川が楓川です。楓川の左の接続が日本橋川で日本橋、一石橋が描かれ、その左に呉服橋が描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸大名小路絵図(嘉永二年・1849年)」(絵図右下に呉服橋御門が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図(嘉永二年・1849年)」(絵図右上に呉服橋御門が描かれています。)

国際日本文化研究センター – (内題)東京府武蔵国麹町区大手町及神田区錦町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16年・1883年)」(地図右上に呉服橋門が描かれています。)

嘉永2年 尾張屋清七版の切絵図に於ける、一石橋・呉服橋御門・銭瓶橋・常盤橋御門の位置関係図。

(幕末の呉服橋門・ファイル:Gohukubashi-Mon.JPG)

江戸名所図会」(画像は国立国会図書館ウェブサイトより取得)・「八見橋

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「八見橋」(1-33)

「東都歳事記」・「武城七夕(常盤橋一石橋呉服橋).jpg

東都歳事記. 巻之1-4,附録 / 斎藤月岑 編纂 ; 長谷川雪旦 図画 ; 松斎雪堤 補画」・「武城七夕(常盤橋一石橋呉服橋)」(4-3)

呉服橋跡案内板 – Google Map 画像リンク

カメラ北東方向・街路樹と街灯の間に呉服橋の案内板があります。

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