マーカーは坂下門です。
江戸城配置図(内郭)(拡大図)
坂下門
[西の丸の北側入口で、高麗門とその左の渡櫓門からなる枡形形式だった。文久2年(1862)1月,老中安藤信正が水戸浪士によって襲撃され負傷した「坂下門外の変」の現場である。西の丸に皇居が移るとその重要な入口の一つとなり、明治18年に高麗門が撤去され、同20年に渡櫓門のみが角度を90度変え東表面を向いて建て直された。現在は宮内庁通用門となっており警備は厳重で土橋にすら入れない。正月・天皇誕生日の一般参賀の際の出口の1つとして指定されており、一般人が通れるのはこの機会以外にはない。また坂下門を入って南西に少し進むと西の丸裏門があったのだが、その門は現在は皇居の北西通用門「乾門」として移築されている。 (「江戸城 坂下門」より)]
坂下門・wikipedia-photo
皇居内から見た坂下門・wikipedia-photo
「東京都立図書館 – 大名小路神田橋内内桜田之図(嘉永2[1849]/安政7[1860]改正刊)」[絵図四つ切左上に老中役宅としての「安藤対馬守上屋敷」(安藤信正)が描かれています。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 一之二[文久元(1861)年]」[絵図中央下方向・坂下御門右上に老中役宅としての「安藤對馬守」(安藤信正)屋敷が描かれています。]
本来の磐城平藩安藤家上屋敷は浜町、中屋敷が牡蛎殻町にあり、下屋敷が大塚にありました。
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 日本橋北神田浜町絵図[嘉永三(1850)年]」[絵図四つ切右下・浜町川川口橋右上に「安藤長門守上屋敷」(安藤信正)が描かれています。また、絵図下中央付近・「鎧ノ渡シ」右に「安藤長門守中屋敷」が描かれています。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 音羽絵図[嘉永六(1853)年]」[絵図右端中央に「安藤長門守(安藤信正)下屋敷」が描かれています。現在のお茶の水女子大学になります。]
カメラ西北西方向が坂下門で、カメラ南南西方向に老中役宅としての「安藤對馬守」(安藤信正)屋敷がありました。
カメラ西北西方向が坂下門です。坂下門を潜り堀に沿って北方向に進むと富士見櫓の石垣下に行き当たります。直接富士見櫓に行くには中之門跡を通っていきます。