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大名小路
[徳川家康が1590年に江戸城を居所とする前は、東京湾の一部で日比谷入江と呼ばれていた。1592年からこの入り江が埋め立てられて江戸城が拡張された。新たに外堀が作られ、外堀であったものが内堀となったため、御曲輪内(おくるわうち)と呼ばれるようになった。親藩や譜代大名の江戸藩邸が24あったため「大名小路」とも呼ばれた。南町奉行所・北町奉行所や勘定奉行の奉行所、評定所も置かれた。
明治維新後に武家屋敷は取り壊されて官有地となり、陸軍の兵舎・練兵場などになった。陸軍兵営が移転した後の1890年、三菱の2代目当主・岩崎弥之助に150万円で払い下げられた。当時の丸の内は草の生い茂る原野と化しており、三菱ヶ原と呼ばれた。1894年に丸の内最初のオフィスビルである三菱一号館が竣工、これを皮切りにロンドンのロンバードストリートに倣った赤煉瓦街が建設され、一丁倫敦(いっちょうろんどん)といわれるようになった。三菱の手でオフィス街が築かれたこの地区は、現在に至るも三菱グループ各社の本社や三菱地所所有のオフィスビルが集中する。 (wikipedia・丸の内より)]
丸の内
[江戸時代この界隈は、江戸城の内堀と外堀に囲まれていました。丸の内とは、堀で囲まれた内側という意味合いをもった名で、大名屋敷が立ち並んでいました。
明治維新後、大名屋敷が取り払われてから、周辺は一気にさびれていきます。屋敷跡が陸軍の練兵場などの軍用施設になり、街としての新しい開発が行われなかったためです。明治の文学者田山花袋(たやまかたい)は、明治20年(1887)ごろの丸の内を次のように描写しています。「丸の内は、いやに陰気で、さびしい、荒涼とした、むしろ衰退した気分が満ちわたっていて、宮城も奥深く雲の中に鎖(とざ)されているように思われた」(『東京の三十年』)
この丸の内一帯が大きく変貌をとげたのは明治23年(1890)、陸軍が一帯を三菱社に払い下げてからです。以後、三菱は大規模な再開発にのりだし、地域内の道路整備を行ったうえで、次々と洋風の建築物を建てました。赤レンガの建築物を中心としたそれらの建物が、ロンドンの景観を思わせたことから、一帯は「一丁倫敦(ロンドン)」ともてはやされるようになりました。
さらに大正3年(1914)には東京駅も完成。第一次世界大戦による空前の好景気が追い風となり、丸の内は一気に日本を代表するオフィス街へと成長しました。
そのような歴史をもったこの界隈が、正式に「まるのうち」と呼ばれるようになったのは昭和4年(1929)、丸ノ内一~三丁目という町名が誕生してからのことです。そして昭和45年(1970)、町名の表記が丸ノ内から丸の内と変更され、現在に至っています。 (「千代田区 町名由来板ガイド:丸の内(まるのうち)」より)]
大名小路資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸大名小路絵図」
「[御大名小路辰之口辺図] / 高柴三雄 誌」・「bunko01_01854_p0001.jpg」
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「元旦諸侯登城之図」(1-27)、「江戸大城基立解説-1・左ページ中程より」(1-24)、「江戸大城基立解説-2」
元旦諸侯登城之図(拡大図)
カメラ位置は東京駅(丸の内口)前で、カメラ南西角が丸ビルです。