評定所跡

マーカーは評定所跡です。

評定所跡
[江戸城外の辰ノ口(現在の千代田区丸の内一丁目4番南西部。明治維新直後には糾問所が置かれ新撰組隊士二人が調べを受けた)にあり、江戸幕府の重要事項や大名旗本の訴訟、複数の奉行の管轄にまたがる問題の裁判を行なった機関で、町奉行寺社奉行勘定奉行老中一名で構成された。これに大目付目付が審理に加わり、評定所留役が実務処理を行った。とくに寺社奉行・町奉行・勘定奉行は三奉行と呼ばれ、評定所のもっとも中心になる構成員であった。享保の撰要類集などからも明らかなように、時として三奉行という形で老中へ伺うことも多かった。後には、側用人、江戸出府中の京都所司代大坂城代遠国奉行なども列席した。評定所の歴史については、寛永12年(1635年)11月の法令から、この時期に設置されたとされる。ただその場所については諸説があり、もっとも一般的な説は、明暦の大火によって、それまで評定の行われた酒井雅楽頭と安藤右京亮の屋敷が焼失したため、以降伝奏屋敷を仕切って評定所を置いたというものである(石井良助・服藤弘司など)。これは享保期に幕府の求めに応じて、評定所が提出した書上のなかに記載されている事項であり、一般的な入門書などでも広く書かれている。しかし「江戸幕府日記」を詳細に検討した藤井譲治は、寛永12年12月3日に伝奏屋敷で「寄合」が行われたことを明らかにしている(『江戸幕府老中制形成過程の研究』)。また藤井は寛永9年から12年にかけての「寄合」の数と場所を同日記から説明し、伝奏屋敷以前は土井利勝酒井忠勝の屋敷で行われたことがわかる。  (「wikipedia・評定所より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸大名小路絵図(嘉永二年・1849年)」(絵図右下道三橋左上方向に御評定所と描かれています。)

[御大名小路辰之口辺図] / 高柴三雄 誌(嘉永2[1849]年)」・「bunko01_01854_p0001.jpg

東京図測量原図 : 五千分 – (内題)東京府武蔵国麹町区八重洲町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図上中央・東京鎮台歩兵営の左の建物が伝奏屋敷です。)
東京図測量原図 : 五千分 – (内題)東京府武蔵国麹町区大手町及神田区錦町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図下中央・東京鎮台歩兵営の左の建物が評定所跡です。)

カメラ位置は大手町駅前交差点で、カメラ南西方向が評定所跡になります。

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