大手前歩兵屯所(神田上水樋管)

マーカーは大手前歩兵屯所跡です。

大手前歩兵屯所
[桜田門外の変井伊直弼が暗殺された後の文久2年(1862年)に、文久の改革の一環として本格的な西洋式軍隊である「陸軍」の創設がされた。陸軍奉行を長として、その下に歩兵奉行3人と騎兵奉行を置き、歩兵騎兵砲兵三兵編制を導入した。ただし、こうして誕生した陸軍はあくまで従来の軍制と並立する組織であった。
歩兵は、横隊などを組む戦列歩兵に該当する「歩兵」と、軽歩兵に該当する「撒兵(さっぺい)」に分類された。うち歩兵隊は、旗本から禄高に応じて供出させた兵賦(へいふ)と称する人員から構成され、同年12月には、幕府は大量に必要になる兵員確保の為、旗本に対して兵賦令を布告した。兵賦令の内容は、500石以下の旗本は金納、500石以上の旗本に対して、課された軍役の人員を半数とする代わりに、兵賦を知行地から供出するものとされ、兵賦は知行500石で1人、1000石で3人、3000石で10人の人員の供出を割り当てられたが、当面はこの半数で良いとされた。
兵賦の年齢は17歳から45歳までとされ、年季は5年、身分は最下層ながら、武士に準ずるものとされ、脇差の帯刀を許され、功績次第では正式に幕臣に登用されるものとされた。歩兵隊の兵賦は江戸城西の丸下、大手前、小川町、三番町に設けられた屯所に入営し、装備、衣服、糧食などは幕府が負担し、給与だけは各旗本が個別に支給する方式が取られ、給金は年10両が限度とされたが、人件費高騰や通貨膨張などの為、実際は年15両もしくはそれ以上の給金が支払われた。その後の元治元年(1864年)7月までに関東諸国から、10000人ほどが徴集された。
大政奉還後に鳥羽・伏見の戦いが発生した。この戦闘には歩兵隊や伝習隊など多数が動員されたが敗北、戦後一部は明治新政府に帰順したが、伝習隊などは部隊規模で脱走し、戊辰戦争では各地で戦闘を繰り広げ箱館戦争まで戦った。他方、帰順した部隊が新政府軍に編入された例もあり、伝習歩兵隊第3大隊・第4大隊から集成した「帰正隊」(2個中隊)が各地に転戦している。
戦歴
天狗党の乱 – 初陣。
長州征討 – 歩兵隊4個大隊、砲兵組、御持小筒組などが参陣。歩兵指図役 友成求馬、歩兵指図役 松平友之丞が戦死。
●鳥羽・伏見の戦い – 歩兵奉行並佐久間信久、歩兵頭窪田鎮章が戦死。
市川・船橋戦争 – 撒兵隊の脱走部隊が新政府方の諸藩兵と交戦し敗北。鎮圧される。
●野州梁田の戦い:古屋佐久左衛門率いる脱走部隊(後の衝鋒隊)が新政府軍(東山道軍)に大敗。
●北関東の戦い:大鳥圭介率いる脱走部隊(伝習隊など)が、小山・宇都宮城、今市、藤原など各地で新政府軍と戦う(宇都宮城の戦い)。
北越戦争:衝鋒隊が参加。
●箱根戦争(箱根山崎の戦い):伊庭八郎率いる脱走部隊(遊撃隊)と脱藩した林忠崇率いる請西藩軍の合同部隊が、新政府軍(小田原藩鳥取藩など)に大敗。
会津戦争:大鳥軍、衝鋒隊、共に新政府軍と戦う。母成峠の戦いで大敗。
●箱館戦争 – 歩兵隊を再編した衝鋒隊や伝習歩兵隊、伝習士官隊など。  (wikipedia・幕府陸軍より)]

西の丸下と大手門前に歩兵屯所が描かれています。

神田上水樋管
神田上水留. [49] 神田上水神田橋御門内外其外樋筋御修復一件 慶応三卯年三月より 分冊ノ一」(34,35/92・神田橋から歩兵屯所周辺の神田上水樋管が描かれています。)
神田上水留. [51] 神田上水神田橋御門内外其外樋筋御修復一件 慶応三卯年三月より 分冊ノ三」(26~28・・神田橋から歩兵屯所周辺の神田上水樋管が描かれています。)

カメラ位置は大手町交差点で、カメラ南西方向に大手前歩兵屯所がありました。

小川町歩兵屯所(Google Maps)

三番町歩兵屯所(Google Maps)