天守閣跡

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マーカーは天守閣跡です。

江戸城配置図(内郭)~クリックして拡大図てご覧ください。

国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸城図

江戸城本丸図へリンク

天守閣跡
[徳川家康の改築以降、本丸の天守は慶長度(1607年)・元和度(1623年)・寛永度(1638年)と三度築かれている。どの天守破風の飾り板を金の延板で飾っていた。慶長度天守は徳川秀忠によって解体され新たに造り直されている。造り直しの動機は御殿の拡張が必要となった結果で、宮上茂隆はこの初代天守は縮小した上で大坂城に移築されたとしている。元和度天守も秀忠の死後に家光によって解体され造り直されている。この動機も秀忠・家光の親子関係に起因する説や、仙台城天守(未完)への下賜説、高層建築による漆喰の早期剥離に対する是正工事といった説があるが、詳しい所は不明である。1657年(明暦3年)の明暦の大火で、過失により開いていた二重目の銅窓から火が入り焼失している。焼失後、ただちに再建が計画され、現在も残る御影石の天守台が前田綱紀によって築かれた(高さは6間に縮小)。計画図も作成されたが、保科正之の「天守は織田信長岐阜城に築いたのが始まりであって、城の守りには必要ではない」という意見と江戸市街の復興を優先する方針により中止された。後に新井白石らにより再建が計画され図面や模型の作成も行われたが、これも実現しなかった。以後は、本丸の富士見櫓を実質の天守としていた。
「現・本丸天守台」・wikipedia-photo、『江戸図屏風』に描かれた元和度もしくは寛永度天守・wikipedia-photo、天守代用櫓である富士見櫓・wikipedia-photo
寛永度天守
寛永度天守は1636年(寛永13年)から翌年にかけて天守台・天守双方が完成している。黒田忠之浅野光晟が築いた天守台の位置は本丸北西の北桔橋門南、規模は元和度を踏襲している。また、元和度と縦横の位置を変えたとある(『黒田家続家譜』)。材質は伊豆石。小天守台が設けられているが、小天守は建てられていない。これは階段の踊り場のような意味で造られたからである。基本的な構造は現在の天守台とほぼ同じだが、大坂城と同じように東側の登り口以外に西側にも橋台と接続するかたちで出入口が設けられていた。
構造は5重5階(地階を含めれば6階)の独立式層塔型で壁面は黒色になるよう塗料もしくは表面加工が施された銅板を張り、屋根は銅瓦葺である。高さは元和度と同じ本丸地上から天守台を含む30間、下総国からも眺望ができたという。作事大工は甲良宗広
1657年(明暦3年)の明暦の大火で、過失により開いていた二重目の銅窓から火が入り焼失している。再建計画時に寛永度と同様の天守を建築する予定だったので多くの資料が提出されており、確定的な図面が残されているので正確な姿が判明している。
●規模…「 」内は柱間(7尺間)、桁行・梁間は京間
  ●地階…「12間×10間」
  ●一重目…「18間×16間」 桁行29間2尺9寸×梁間27間1尺9寸、柱数191本
  ●二重目…「15間×13間」 桁行16間1尺×梁間24間、柱数155本(内、一重目より三重目まで通し柱13本)
  ●三重目…「12間×10間」 桁行13間2尺5寸×梁間11間1尺5寸、柱数127本(内、三重目より四重目まで通し柱32本)
  ●四重目…「10間×8間」 桁行10間5尺×梁間8間4尺、柱数75本(内、四重目より五重目まで通し柱9本)
  ●五重目…「8間×6間」 桁行8間4尺×梁間6間3尺、柱数55本
江府御天守図(寛永度天守図面)・wikipedia-photo、『江戸図屏風』に描かれた元和度もしくは寛永度天守・wikipedia-photo、寛永度天守の復元図・wikipedia-photo  (wikipedia・江戸城より)]

家康築いた江戸城絵図 「最強の要塞」裏付け – 読んで見フォト – 産経フォト

カメラ北西方向が天守台です。

天守台登り口のカメラです。

天守台上の360citiesです。

[江戸城本丸の一番北側に位置しています。江戸城の天守は、慶長11年(1606)の家康、元和8年(1622)の秀忠、寛永15年(1638)の家光と将軍の代替わりごとに築き直され、将軍の権力の象徴であったともいえます。慶長の天守は、現在より南の富士見多聞のあたりに位置していたと考えられます。5層の天守の高さは、国会議事堂とほぼ同じくらいだったといわれています。元和・寛永の天守は、現在の天守台とほぼ同じ位置にありました。元和の天守は元和8年(1622)、2代将軍秀忠の本丸海造の際、慶長の天守を撤去して新しく建てたもので、翌9年に完成し、高さは慶長の天守を上回っていたといわれています。寛永の天守は、寛永15年(1638)、3代将軍家光のとき、元和の天守台(現存の天守台)に建てたもので、「江戸図屏風」によると金の鯱をのせた五層の天守閣でした。この寛永の天守は、明暦3年(1657)の火災で焼け落ち、翌年に加賀藩前田家の普請により高さ18mの花崗岩でできた天守台が築かれます。これが現在残る天守台ですが、四代将軍徳川綱吉の叔父である保科正之の戦国の世の象徴である天守閣は時代遅れであり、城下の復興を優先すべきであるとの提言により、以後天守閣は再建されることはありませんでした。現在、東西約41m、南北約45m、高さ11mの石積みが残っています。江戸城の天守閣は、江戸初期の50年間だけ存在したのでした。なお、明治15年(1882)当時の気象台が天守台に設けられ各種の観測が行われていました。  (千代田区観光協会ホームページより)]

[小天守台の平面には、金明水(きんめいすい)という井戸があります。この井戸は、籠城に備えて掘られたものです。金明水は、享保年間の文書には、小天守台の内側に描かれているそうです。それが、現在は、小天守台の外側にありますので、享保年間以降に、本丸御殿が何回か火災にあい、その影響で焼きただれた小天守台の石垣を積み替えため、小天守台の内側にあった金明水が、小天守台の外側に出ることになったと考えられています。金明水の深さは10メートル程度だそうです。本丸の北側の乾濠の水位は約20メートルあるので、金明水の水はかなり高いところまで上がっていることになります。  (「天守台 (江戸城本丸ツアー)|気ままに江戸 散歩・味・読書の記録」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸城天守櫓図

江戸城御本丸御天守閣建方之図」、「江戸城御本丸御天守閣外面之図」、「江戸御城御殿守正面之絵図」、「江戸御城御殿守横面之絵図」、「江戸城御本丸御天守閣1/100建地割

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