岡山藩池田家上屋敷跡

マーカーは丸ビルです。

関連リンク – 岡山藩池田家中屋敷跡、「岡山藩中屋敷跡、備前橋跡」、岡山藩池田家下屋敷跡

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP451・コマ番号269/553から岡山藩屋敷の変遷について記載されています。P451・コマ番号269/553「上屋敷 大名小路」が上屋敷、P452・コマ番号270/553「向屋敷」が中屋敷になります。

岡山藩池田家上屋敷跡
[赤レンガのJR東京駅舎前に広がる丸の内地区は、今や日本を代表するオフィス街となっていますが、江戸時代には比較的石高の大きい大名の屋敷が建ち並ぶ、「大名小路」と呼ばれた屋敷町で、岡山藩池田家の上屋敷もこの地区にありました。
 藩邸があった場所は現在のJR東京駅真正面で、東京の新名所として人気の高い丸ビルと、西に隣接する郵船ビル・三菱商事ビル、そしてその北側を走る行幸通りをぐるりと囲んだ区画に相当します。
 池田家が丸の内に屋敷を構えたのは、17世紀初頭の慶長年間にまでさかのぼります。この当時、池田家は姫路藩主で、その後鳥取、岡山と領地は変わりますが、屋敷地はそのまま変わらず明治維新に至っています。上屋敷は江戸における藩政を執り行う本邸で、屋敷面積は約2万7500㎡、藩主とその妻子、家臣を含め、岡山藩ほどの大藩になると4000~5000人が邸内に住んでいました。
 廃藩置県によって藩邸がなくなると、丸の内地区は、軍用地を経て、明治23年に一帯が岩崎家三菱財閥)に払い下げられます。当初は何の利用もされなかったため、「三菱ヶ原」と呼ばれる野原となっていましたが、明治27年以降馬場先通り沿いに次々にレンガ造りのオフィスビルが建築され始めます。大正3年に東京駅が開業すると、駅周辺にもオフィスビル建設の波が押し寄せ、丸の内地区は日本を代表するオフィス街へと変貌を遂げました。特に大正12年に完成した丸ビルはその象徴的存在で、規模もそれまでにない巨大なものでした。  (「岡山藩上屋敷跡(丸の内) – 岡山市」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 武州豊嶋郡江戸〔庄〕図(出版年月日・〔寛永9(1632)頃〕刊」(絵図中央右・和田倉門左下に「松平新太郎」(池田光政)、その下に「新太郎中屋敷」と記述されています。)

国立国会図書館デジタル資料 – 〔江戸切絵図〕. 御江戸大名小路絵図(嘉永2年・1849年)」[絵図中央下・大名小路上に「松平内蔵頭上屋敷」(池田慶政)、その下に「松平内蔵頭中屋敷」が描かれています。]

[御大名小路辰之口辺図] / 高柴三雄 誌(嘉永2年・1849年)」・「bunko01_01854_p0001.jpg

東京図測量原図 : 五千分一 – (内題)東京府武蔵国麹町区八重洲町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図上方向・「陸軍省会計局倉庫」が岡山藩池田家上屋敷跡です。)

カメラ南西方向が岡山藩池田家上屋敷跡に建つ丸ビルです。また、カメラ南東方向に中屋敷がありました。