岩村藩松平(大給)家上屋敷跡

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP339・コマ番号213/553から岩村藩屋敷の変遷について記載されています。P342・コマ番号215/553「上屋敷 大名小路」がこの地になります。

岩村藩松平(大給)家
[岩村藩(いわむらはん)は、美濃国(現在の岐阜県)の岩村城を拠点として美濃国と駿河国の一部を支配した藩。
徳川家康譜代の家臣・松平家乗慶長6年(1601年)1月に上野那波藩から2万石で入った。慶長19年(1614年)2月に家乗は死去し、後を子の松平乗寿が継いだ。乗寿は大坂の陣で戦功を挙げたことを賞され、寛永15年(1638年)4月25日に遠州浜松藩へ加増移封される。
寛永15年(1638年)4月27日、三河伊保藩より丹羽氏信が2万石で入る。この丹羽氏(一色丹羽氏)は、織田信長に仕えてその四天王(織田四天王)にまでなった丹羽長秀と血縁関係の無い別の一族である。第5代藩主・丹羽氏音のとき、藩政改革をめぐって家臣団内部で対立が発生し、遂には家臣の村瀬兵衛が幕府に内情を訴えたために御家騒動となり、幕府からそれを咎められて、元禄15年(1702年)6月22日、越後高柳藩へ減移封となった。
元禄15年(1702年)9月7日、信濃小諸藩より松平乗寿の孫・松平乗紀が2万石で入る。歴代藩主の多くが奏者番寺社奉行など幕府の要職を歴任しているが、そのために第4代藩主・松平乗賢時代の享保20年(1735年)5月23日に1万石の加増を受けて3万石となったが、その内の5,276石が駿河国の15ケ村(現在の藤枝市焼津市島田市静岡市の一部)で横内村に横内陣屋を設置し代官を派遣した。また岩村藩主が大坂城代に就任した期間は摂津国和泉国美作国で計1万石を給付された。
なお、大給松平家は学問を奨励し、松平乗紀は藩校・文武所(のちに知新館)を創設した。松平乗薀の3男・松平乗衡は大学頭である林信敬の養子となり、後に林氏を継いで林述斎(林衡)となる。
1858年、箱館奉行所の要請により足立岩次らを蝦夷地へ派遣。近代北海道初の陶磁器生産である箱館焼の生産を開始するが数年で失敗。
明治2年(1869年)、最後の藩主である松平乗命版籍奉還により岩村知藩事に任じられる。明治4年(1871年)の廃藩置県により、岩村藩は廃藩となり、岩村県を経て岐阜県に編入された。  (wikipedia・岩村藩より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸大名小路絵図(嘉永3年・1850年)」(絵図四つ切左下に松平能登守(松平乗喬)上屋敷が描かれています。)

カメラ東方向通路両サイドが岩村藩松平(大給)家上屋敷跡になります。