島原藩上屋敷跡(「明治大学発祥の地」碑)

マーカーは「明治大学発祥の地」碑です。

島原藩上屋敷跡(「明治大学発祥の地」碑)
[有楽町マリオン前、数寄屋橋交差点のニュートーキョービル前にある公園に「明治大学発祥の地」の碑があります。
 明治法律学校(現明治大学)は, 明治14年(1881)に 旧肥前島原藩主松平氏の上屋敷であったこの地に開校しました。
 創立者の岸本辰雄宮城浩蔵矢代操の三人は、明治政府の命をうけた藩の選抜生(貢進生)として鳥取藩天童藩鯖江藩を代表して大学南校(後の東京大学)に遊学した。その後、明法寮(のちに司法省法学校)で「お雇い外国人」教師のボワソナードらからフランス法学を学んだ彼らは、フランスに留学し, とくに「権利自由, 独立自治」の精神の普及をめざして明治法律学校を創設しました。
 当時彼らは いずれも三十歳に満たぬ 白面の書生でありました。  (「明治大学発祥の地 – 千代田区観光協会」より)]

[有楽町・数寄屋橋交差点近くの緑地の一角に、「明治大学発祥の地」 と刻まれた碑が建っている。ここにはかつて島原藩松平家の上屋敷があり、明治14(1881)年1月、明治法律学校はその屋敷の一角を借りて開校した。同藩の三田にあった中屋敷は政府に接収された(その後慶應義塾に払い下げられた。 現在の慶應義塾三田キャンパス)ものの、上屋敷は引き続き所有することを許されており、旧藩主の松平家は敷地約4000坪のこの屋敷の一部を区切って貸家としていた。明治法律学校では屋敷のうちの300坪あまりを借りていた。それは貸家部分のほぼ三分の一程度に相当するのではないかと推定されている(『明治大学の発祥』)。家賃は50円程度だった。屋敷は明治法律学校が入る以前は政社が借り、演説会が頻繁に開催されていた。多くの受講生を一同に集めて講義を行う西洋流の近代教授を施すには、大広間のある武家屋敷は恰好だったといえよう。とはいえ第一期生の安田繁太郎によれば、大名屋敷だけに部屋は多くあったものの教場はきわめて簡素で、屋敷の奥書院を講堂に見立てて畳を上げ、素板の上に学生の座る粗末な腰掛けと講師の上る壇・椅子をしつらえただけのものだったという。上に掲げた実測図にも見えるように屋敷内には池があった。同じく草創期の学生だった安部遜は、一月の開校時には池に氷が張り、東北出身の学生はそこでスケートを楽しんでいた、と思い出を語っている。
 急ごしらえの武家屋敷のキャンパスは、5年で終わりを告げる。急激な学生数の増大に対応すべく学校は、明治19(1886)年12月に駿河台南甲賀町の400坪あまりの土地(現在の日大御茶ノ水キャンパス体育施設付近)へと移転したのである。駿河台は江戸時代旗本が集住して屋敷街を形成した場所であった。新しい校地もかつての旗本屋敷地の一部であったが、創立者たちが苦心の末建設費用を捻出し、二階建ての新築校舎がその威容を誇ることとなったのである。  (「キャンパスは武家屋敷!? ~明治初年の東京都市計画と明治法律学校開校地~」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸大名小路絵図(嘉永2年・1849年)」(絵図左端下に松平主殿頭(松平忠淳)と描かれています。)

[御大名小路辰之口辺図] / 高柴三雄 誌(嘉永2年・1849年)」・「bunko01_01854_p0002.jpg

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 一之二(文久元年・1861年)」[地図右端上に松平主殿頭(松平忠愛)と描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – [慶応改正御江戸大絵図](出版年月日・慶応3 [1867])」(コマ番号3/5・絵図四つ切右下・「スキヤバシ」上に「松平トノモ」(松平忠和)上屋敷が描かれています。松平 忠和(まつだいら ただかず)は、肥前島原藩の第8代(最後)の藩主。江戸幕府の第15代将軍・徳川慶喜の実弟。明治7年(1874年)、東照宮宮司となった。明治14年(1881年)の明治法律学校(現在の明治大学)の開校に際しては、有楽町に所在した旧邸宅を校舎として提供するなど、同校の有力な後援者となった。)

明治大学発祥の地 – Google Map 画像リンク

カメラ南方向に「明治大学発祥の地」碑があります。

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