平将門の首塚

スポンサーリンク

マーカーは平将門の首塚です。

平将門の首塚
[平将門の首塚(たいらのまさかどのくびづか)とは、平将門の首を祀っている塚。将門塚(しょうもんづか)とも呼ぶ。東京都指定の旧跡である。伝承では、将門の首級は平安京まで送られ東の市、都大路で晒されたが、3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、数カ所に落ちたとされる。伝承地は数ヶ所あり、いずれも平将門の首塚とされている。その中でも最も著名なのが、東京都千代田区大手町一丁目2番1号外にある首塚である。かつては盛土と、内部に石室ないし石廓とみられるものがあったので、古墳であったと考えられている。
築土神社神田明神同様に、古くから江戸の地における霊地として、尊崇と畏怖とが入り混じった崇敬を受け続けてきた。この地に対して不敬な行為に及べば祟りがあるという伝承が出来た。そのことを最も象徴的に表すのが、関東大震災後の跡地に仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省職員、さらには時の大臣早速整爾の相次ぐ不審死が起こったことで将門の祟りが省内で噂されることとなり、省内の動揺を抑えるため仮庁舎を取り壊した事件や、第二次世界大戦後にGHQが周辺の区画整理にとって障害となるこの地を造成しようとした時、不審な事故が相次いだため計画を取り止めたという事件である。
結果、首塚は戦後も残ることとなり、今日まで、その人気のない様に反し、毎日、香華の絶えない程の崇敬ぶりを示している。近隣の企業が参加した「史蹟将門塚保存会」が設立され、維持管理を行っている。
首塚の境内には所狭しと多数の蛙の置物が奉納されている。将門の首が京から飛んで帰ったことから、必ず「帰る(カエル)」にひっかけ、伝承で次の二つの利益があるとされている。
●左遷になった会社員が、元の会社に無事に戻ってこられるように、蛙を供える。
●誘拐されたり、行方不明になった子供が無事帰ってこられるように、蛙を供える。
東京都千代田区にある平将門の首塚・wikipedia-photo、首塚の碑・wikipedia-photo  (wikipedia-平将門の首塚より)]

[三井物産ビルの東側に、将門伝説の首塚がの碑が建っています。平安時代、朝廷に反逆し下総で討死した平将門の首が京でさらされ、その首を所縁の人々がもらい受け、当時の武蔵の国豊島郡平川村(皇居平河門あたり)の観音堂かたわらに埋葬したとも、怨念で京から首がこの地に飛んできたものを祀ったともいわれています。13世紀になって首塚は荒廃し、将門の亡霊は大いに怒って江戸の民に祟り、また改めて手厚く供養したといい伝説があります。塚そのものは関東大震災後、大蔵省再建の際に崩されたようです。なお、この地は、江戸時代寛文年間、酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり、山本周五郎の歴史小説「樅の木は残った」の原田甲斐の刃傷事件の舞台となったところです。  (「千代田区観光協会-将門塚」より)]

神田明神|東京都千代田区外神田2-16-2|年中行事 – 将門塚例祭」、「将門塚保存会大神輿渡御 – 一般社団法人 千代田区観光協会 > まちブログ

将門塚 – Google Map 画像リンク

カメラ北北東方向が平将門の首塚です。

平将門の首塚の碑前のカメラです。

平 将門
[平 将門(たいら の まさかど、-將門)は、平安時代中期の関東の豪族である。平氏の姓を授けられた高望王の三男平良将の子。桓武天皇5世。下総国常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国衙を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷に対抗して独自に天皇に即位して「新皇」を自称したことによって、遂には朝敵となる。しかし即位後わずか2か月たらずで藤原秀郷平貞盛らにより討伐された(承平天慶の乱)。死後は御首神社築土神社神田明神国王神社などに祀られる。武士の発生を示すとの評価もある。合戦においては所領から産出される豊富な馬を利用して騎馬隊を駆使し、反りを持った最初の日本刀を作らせたとも言われる。
「築土神社旧蔵の平将門像。後年の作と思われるが制作年代は不明」・wikipedia-photo、平将門の首塚・wikipedia-photo  (wikipedia-平 将門より)]

スポンサーリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*