忍藩松平(奥平家)上屋敷跡

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忍藩松平(奥平家)
[忍藩(おしはん)は、武蔵国埼玉郡に存在した藩。藩庁は忍城(現在の埼玉県行田市本丸)に置かれた。
文政6年(1823年)3月24日には三方領知替えにより、阿部正権の後の武蔵忍藩へ転封を命じら、伊勢国桑名藩より奥平松平忠堯が10万石で入る(なお、この際に桑名藩領の一部が忍藩領になっており、陣屋大矢知陣屋)が置かれていた)。奥平松平家は元禄期に起こした騒動で知行を減らされていたにもかかわらず、石高に較べて家臣団が多くいたため、藩財政は早くから逼迫していた。このため、入部した翌年の文政7年(1824年)には藩内に重い御用金を課している。
第3代藩主・忠国は所領10万石のうち5万石を上総安房に移されたため、異国船の警備を任じられた。1853年(嘉永6年)、ペリー艦隊が来航して幕府に開国要求を迫り、幕府は約8か月の工期で品川砲台(現在のお台場)を完成させると、品川砲台のうち第三台場(現在、台場公園として整備されている)を忍藩に担当させている。これが原因でさらに藩財政は逼迫し、さらに安政2年(1855年)の安政の大地震と安政6年(1859年)の大洪水で領内が大被害を受けて出費が重なり、遂には家臣の俸禄を6分も減らさざるを得なくなった。この頃の奧平松平家の借金は、76万両という途方もないものであった。
慶応3年(1867年)の大政奉還後、第4代藩主・忠誠は幕府と新政府のどちらに与するかを迷い、藩論もそれによって分裂する。翌年、戊辰戦争が起こると前藩主・忠国の登場もあって藩論は新政府側に与することで決し、忍藩は東北に出陣した。第5代藩主・忠敬明治2年(1869年)の版籍奉還知藩事となり、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で忍藩は廃藩、代わって忍県が設置された。  (wikipedia・忍藩より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸大名小路絵図(嘉永2年・1849年)」(絵図中央左方向・馬場先門御門右上に松平下総守(松平忠国)上屋敷が描かれています。)

東京図測量原図 : 五千分一 – (内題)東京府武蔵国麹町区八重洲町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図中央左・馬場先門左上の岩倉邸が忍藩松平(奥平家)上屋敷跡になります。)

カメラ位置は丸の内署 皇居前警備派出所前で、カメラ北北東方向が忍藩松平(奥平家)上屋敷跡になります。