マーカーは掛川藩太田家上屋敷跡です。
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掛川藩太田家
[掛川藩(かけがわはん)は、遠江国掛川(現在の静岡県掛川市)に存在した藩。政庁は掛川城に置かれた。
掛川藩は延享3年(1746年)、上野館林藩より5万石で太田資俊が入り、ようやく藩主家が安定した。以後、藩主は太田家により幕末まで7代にわたって続き、慶応4年(1868年)9月、最後の藩主である太田資美が上総柴山藩(松尾藩)に移ることで掛川藩は廃藩となり、その所領は徳川家達の駿河府中藩領となった。
太田家はそれまで何度も藩主家が替わって藩政が不安定なことを考慮し、まずは藩政の安定化を第一とした。警察力の強化と厳罰主義などがそれである。これは前代の小笠原家の時代に盗賊が横行したことも考慮したのであろうが、あまりに厳罰がすぎたため、領民からは評判が悪かった。
第2代藩主・太田資愛は掛川城内に藩校・北門書院(のち徳造書院、教養館)を築いた。また、斎田茂先や山本忠英らを登用して『掛川志稿』という首巻1巻・本文14巻からなる掛川の地理や古墳についてまとめ上げた地誌を編纂し、掛川藩の文化発展に尽くした。
一方、太田家は民政においては「地方御用達」を設置する。これは領民の中から有能な人物を登用し、それらの人物によって藩や村方三役との調整、百姓一揆との交渉を取り持つなどの役目を果たすなど、藩政に大きく参与した役職である。また、掛川藩は灌漑用水を溜池に依存することから、旱魃が続いてたびたび凶作・飢饉が相次いだ。第5代藩主・太田資始はこのような事態を打開するため、松の木の皮を食用にする方法を採用した「松皮製造法」を制定する。これによって飢饉における食糧不足を防ごうとしたのである。
第6代藩主・太田資功は二宮尊徳の弟子に当たる安居院庄七を登用し、藩政改革を行なった。遠州最初となる下石田報徳者を創設し、その後も牛岡組報徳者などを創設した。この報徳社は今でいう村おこしを進める運動会社で、その知識を学ばせる学校といえる。この農村復興計画は大いに成功し、幕末に向けてますます発展していったと言われている。
なお、藩財政においては、掛川藩は米作を中心として茶・木材・椎茸などが作られていたが、いずれも生産量が乏しく、藩財政も農村も常に苦しかった。 (wikipedia・掛川藩より)]
太田資始
[11代将軍・徳川家斉の側近として寺社奉行、京都所司代、大坂城代などを歴任し、天保5年(1834年)に老中となったが、老中首座の水野忠邦と合わず、上知令、出羽国庄内藩転封、倹約令などにその都度反対を標榜した。また、忠邦を幕閣を追放せんとして策謀をめぐらし、水戸に帰国していた常陸国水戸藩主・徳川斉昭に出府を要請し、斉昭を背後から操って忠邦の天保の改革を潰そうと画策した。
しかし斉昭が出府を拒否した上、忠邦にこの動きが漏れ、逆に資始のほうが天保12年(1841年)6月、老中から罷免され隠居した。跡は長男の資功が継いだ。その後、道醇と号した。
老中再任
次に老中に再任されたのが安政5年(1858年)である。大老・井伊直弼は堀田正睦、松平忠固を罷免し、代わりに資始、間部詮勝、松平乗全ら老中経験者3人を老中に起用した。既に家督を譲った隠居を老中に起用するのは大変異例なことであった。隠居のため役領3万俵を支給された。しかし、ここでも資始と直弼は尊王倒幕志士らの弾圧をめぐって意見が対立した。安政6年(1859年)、再び老中を罷免された。
三度老中に
文久3年(1863年)に3度目の老中就任をしたが、在職1か月で辞職した。幕府はなおも老練な資始を老中に迎えようとしたが、話がまとまらないうちに死去した。
人物
●天保期の大儒・松崎慊堂は、資始が直言抗弁の士を好み、「我を怒らせる者は忠臣なり」として、侍臣の諌争を奨励したと語っている。
●資始が可愛がっていた愛馬が死んでひどく嘆いていると、侍臣が憂えて種々の手段で慰めようとした。このため資始はこれを恥じ、侍臣を集めて「これまで大切な家臣が多く死んだのを嘆いたことがないのに、馬ごときに嘆くのは物の軽重を誤るものであり、人君たる者のすべきことではない」と言い、二度と死んだ馬のことを口に出すことはなかったという。
●山田三川の『想古録』では、上記の二つの逸話に「掛川侯、人君たるの器量あり」と表題をつけて収録している。
●大坂町奉行所の与力であった大塩平八郎は、資始が大坂城代であった頃に面識があり、後に資始が京都所司代在任中の天保4年(1833年)に著書『洗心洞箚記』を上呈している。潔癖で狷介な大塩は決して権力者に媚びることはなく、4年後の天保8年(1837年)に大坂東町奉行の跡部良弼との確執が元で大塩平八郎の乱を起こしている。
●大塩は乱の直前に老中など幕閣の要人たちの賄賂や不正無尽などの悪行を糾弾する建議書を、旧知の林述斎宛て飛脚便で江戸に送付した。老中および西の丸老中6人の中で、大塩から糾弾されなかった者は資始と脇坂安董の2人だけである。安董は寺社奉行から西の丸老中格となったために大坂表に赴任したことがなく、大塩との接点がなかった。糾弾された4人は資始と同様に大坂城代を歴任している。 (wikipedia・太田資始より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸大名小路絵図(嘉永2年・1849年)」(絵図四つ切右下下に太田摂津守(太田資功)と描かれています。)
カメラ南南東方向は掛川藩太田家上屋敷跡に建つアーバンネット大手町ビルです。(掛川藩太田家上屋敷跡範囲:千代田区大手町2丁目2)