有楽稲荷神社(高槻藩永井家上屋敷跡)

マーカーは有楽稲荷神社です。

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP596・コマ番号342/553から高槻藩屋敷の変遷について記載されています。「上屋敷 数寄屋橋内」がこの地になります。

高槻藩永井家
[江戸初期の高槻藩は藩主が短期間で相次いで変わり、藩主家の交替が相次いだ。その後、慶安2年(1649年)山城長岡藩より永井直清が3万6000石で入ってようやく藩主が定着し、永井氏13代の支配を経て明治時代を迎えた。
〔江戸切絵図〕御江戸大名小路絵図時代の永井遠江守は第11代藩主永井直輝で、嘉永6年(1853年)、ペリー来航の際には、鎖国体制下でのオランダとの通商関係の強化を幕府に提言している。 (wikipedia・高槻藩永井直輝より)]

有楽稲荷神社
[所在地 千代田区有楽町1-7 (有楽町電気ビルヂング先)
 当社は永井飛騨守(永井直輝)が天下泰平と子孫繁栄を祈念して安政6年(1859)に創立したものであります。社の傍にある手洗鉢は「萬延元庚申年八月に、駒野四郎兵衛藤原里知、佐竹源治源義道、千葉脩二平宗克、土屋多藏源昌大、小川岩藏源富行、谷本重藤原長徳、井口岩五郎平貞正、清水量藏藤原吉利」の八名が奉納した銘があり、当時から非常に信仰が篤かったことが偲ばれます。明治維新後は町制の変革によって稲荷神社もわずかにその跡形を止めるばかりでしたが、明治41年(1908)東京市電気局有楽町変電所が設けられたとき、祠堂も改修して町内氏子と共にお祠りして来ました。大正12年(1923)9月1日の関東大震災の際にも周囲はみな延焼したにも拘らず、独り当地は災害を免れました。昭和8年(1933)1月変電所の復興を機会に盛大な鎮座祭を行なって以来、毎年2月初午には大祭を執り行っております。昭和48年(1973)9月、有楽町電気ビルの新築に伴い一時、赤坂山王町日枝神社遷座されましたが、昭和54年(1979)2月、再びこの地に復座いたしました。 ここに、この由緒の概略を述べ伝える所以であります。
昭和54年(1979)2月  (「東京都千代田区の歴史 有楽稲荷神社」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸大名小路絵図(嘉永二年・1849年)」[絵図左中程に永井遠江守(永井直輝)上屋敷が描かれています。]

(内題)東京府武蔵国麹町区八重洲町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)明治16・1883年」(地図下・数寄屋橋門の左上の「萬里小路邸」が高槻藩永井家上屋敷跡になります。)

有楽稲荷神社 – Google Map 画像リンク

カメラ北方向に有楽稲荷神社があります。

有楽稲荷神社社殿前のカメラです。

  

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