マーカーの位置は、松之大廊下跡です。
江戸城配置図(内郭)(拡大図)
松之大廊下
[松之大廊下(まつのおおろうか)は、江戸城内にあった大廊下のひとつ。本丸御殿の大広間から将軍との対面所である白書院に至る全長約50m、幅4mほどの畳敷の廊下。廊下に沿った襖に松と千鳥の絵が描かれていたことから松之大廊下と称された。元禄14年(1701年)3月14日午前10時頃、赤穂藩主で勅使饗応役であった浅野長矩がこの廊下で高家肝煎の吉良義央に斬りつけた事件で一般的にも有名である。現在、皇居東御苑内の松之大廊下があった場所には所在を示す碑が建てられている。ちなみに『忠臣蔵』関連の時代劇では襖絵に巨大な松が描かれている作品があるが、実際の襖絵は松並木が続いたものであり、史実に反する。
松之大廊下模型・wikipedia-photo、松之大廊下模型(拡大)・wikipedia-photo、江戸城本丸跡・wikipedia-photo (wikipedia・松之大廊下より)]
[本丸跡左手の現在は木立となっているところに、本丸大広間と白書院(将軍との対面所)を結ぶL字形の廊下がありました。これが「松の廊下」です。ここが「忠臣蔵」で有名な元禄14年(1701)3月14日、赤穂藩主の浅野匠頭長矩が高家衆筆頭の吉良上野介義央に斬りかかる刃傷事件が起きた場所です。上野介は軽傷でしたが、殿中での刃傷はご法度であったので、内匠頭はその日のうちに切腹となりました。その後、赤穂藩は取りつぶしとなり、家臣たちは浪士となりました。一方、上野介には御咎めはなく、お家の再興も退けられた浪士が大石内蔵助(大石 良雄)を頭に亡君の仇討を計り、元禄15年(1702)12月15日に吉良邸に討ち入り本懐を遂げました。この事件の発端となった、松の廊下は本丸で二番目に長い廊下といわれ、西へ約19メートル、北へ約31メートル、幅は約5メートルであったと伝えられています。障壁画に「松」を主題にした絵が描かれていたことから「松の大廊下」と呼ばれていました。 (千代田区観光協会ホームページより)]
[江戸城本丸跡には広々とした芝生が広がっています。本丸御殿は、表・中奥・大奥第二次世界大戦後も野菜畑や桑畑の時代もありました。本丸跡は気象台発祥の地でもあり明治期から昭和30年代まで気象庁の官舎もありました。明治4年(1871)正確な時間を知らせるために、ここに午砲台(ドン)が設置され、昭和4年(1929)に廃止されるまで、「ドン」の愛称で東京府民に親しまれていました。 (千代田区観光協会ホームページより)]
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カメラ南南西方向先に松之大廊下跡があります。
カメラ西南西方向が松之大廊下跡碑と案内板です。