林大学頭邸跡

マーカーは林大学頭屋敷跡です。

関連リンク – 「国史跡 林氏墓地

林大学頭邸跡
[林家(りんけ)は林羅山を祖とする儒学者朱子学者の家系。江戸幕府の儒家として代々任じられた林家と、第二林家の2家があり、いずれも林羅山を始祖としている。なお、林家において大学頭を称したのは3代鳳岡からであり、鳳岡までは僧形であった。  (wikipedia・林家_(儒学者)」より)]

林鳳岡
[林 鳳岡[はやし ほうこう、寛永21年12月14日(1645年1月11日) – 享保17年6月1日(1732年7月22日)]は、江戸時代前期・中期の儒学者。特に元禄時代の将軍徳川綱吉のもと江戸幕府の文治政治の推進に功績があったひとり。父は林鵞峰。名は又四郎・春常・信篤。字は直民。号は鳳岡・整宇。
儒学者林鵞峰の次男として江戸に生まれた。兄の春信(梅洞)が早世したため林家を継いだ。
延宝8年(1680年)に父鵞峰が死去したのちは、その職禄を継いで大蔵卿法印弘文院学士となった。その後、江戸幕府の4代将軍徳川家綱以後8代将軍徳川吉宗まで5代にわたって幕府に仕えた。特に5代綱吉、8代吉宗からの信任が厚く、綱吉の命により殿中諸士に講義したこともある。
元禄4年(1691年)、それまで上野不忍池の池畔にあった家塾が、湯島に移され湯島聖堂として竣工したのにあわせて大学頭に任じられた。このときまで儒者は仏僧の風にしたがい、士籍に入ることもできなかったが、鳳岡は強くこれに反対の意を表明した。これにより、同年、束髪改服を命じられ、従五位下に叙せられた。以後、鳳岡は聖堂学問所(のちに昌平坂学問所)を管掌し、大学頭の官職も林家が世襲することとなり、また、それまで僧形で勤めていた儒官の制度も終わりを告げて、儒学者は一般にとして扱われるようになった。
その後、鳳岡は6代家宣、7代家継、8代吉宗に仕え、講学だけではなく官爵や系譜祭典など、幕府の文書行政に参与し、この間、朝鮮通信使の応接にもかかわった。また『武徳大成記』などの編纂に従事し、林家の官学的傾向をつよめ、服忌令を定めた。また、その門下は幕府や諸藩に仕え、儒学の発展におおいに寄与した。
享保8年(1723年)、子の信充(林榴岡)に家督を譲った。享保17年(1732年)、87歳で死去した。(国史跡 林氏墓地)  (wikipedia・林鳳岡より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 一」(コマ番号73/130・左ページ「延宝(1673年-1681年)・元禄(1688年-1704年)年中之形」絵図中央に林春常(林鳳岡)と記述されています。コマ番号74/130・右ページ「元禄十四(1701)年之形」に林大学頭(林鳳岡)、左ページ「明和九(1772)年之形」に「林大学頭」(林鳳谷)と記述されています。コマ番号75/130・右ページ「寛政十二(1800)年之形」、左ページ「文化元(1804)年之形」、コマ番号76/130・右ページ「文化十(1813)年・文化十四(1817)年之形」に林大学頭(林述斎)と記述されています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸大名小路絵図(嘉永2年・1849年)」(絵図中央・馬場先御門右下に林大学頭(林壮軒)と記述されている。)

[御大名小路辰之口辺図] / 高柴三雄 誌(嘉永2年・1849年)」・「bunko01_01854_p0001.jpg

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 一之二(文久元年・1861年)」(絵図中央・御堀上に「林大学頭」(林学斎)と記述されています。)

林大学頭屋敷跡 – Google Map 画像リンク

カメラ東方向道路両サイドが林大学頭邸になります。

林羅山
[林 羅山(はやし らざん、天正11年(1583年) – 明暦3年1月23日(1657年3月7日))は、江戸時代初期の朱子学派儒学者。林家の祖。羅山は号で、は信勝(のぶかつ)。字は子信。通称又三郎。出家した後の号、道春(どうしゅん)の名でも知られる。
天正11年(1583年)、京都四条新町において生まれたが、ほどなく伯父のもとに養子に出された。父は加賀国郷士の末裔で浪人だったと伝わる。幼少の頃から秀才として謳われ、文禄4年(1595年)、京都・建仁寺で仏教を学んだが、僧籍に入ること(出家)は拒否して慶長2年(1597年)、家に戻った。その間、建仁寺大統庵の古澗慈稽および建仁寺十如院の英甫永雄(雄長老)に師事し、雄長老のもとでは文学に長じた松永貞徳から刺激を受けた。家に帰ってからはもっぱら儒書に親しみ、南宋朱熹(朱子)の章句、集注(四書の注釈)を研究した。
独学を進めるうちに、いっそう朱子学(宋学)に熱中していき、慶長9年(1604年)に藤原惺窩(せいか)と出会う。それにより、精神的、学問的に大きく惺窩の影響を受けることになり、師のもとで儒学ことに朱子学を学んだ。羅山の英明さに驚いた惺窩は、自身は仕官を好まなかったので、翌慶長10年(1605年)には羅山を推挙して徳川家康に会わせた。羅山が家康に謁見したのは京都二条城においてであった。家康は、惺窩の勧めもあり、こののち羅山を手元に置いていくこととした。羅山は才を認められ、23歳の若さで家康のブレーンの一人となったのである。
慶長11年(1606年)にはイエズス会の日本人修道士イルマン・ハビアンと「地球論争」を行っている。この時林羅山は地動説地球球体説を断固として受け入れず、地球方形説と天動説を主張した。この論争は林羅山がハビアンを論破する形で終わり、その後ハビアンは信仰に動揺を来たし、後の棄教につながっていく。
慶長12年(1607年)、家康の命により僧形となり、道春と称して仕えた。また、この年、江戸に赴き2代将軍徳川秀忠(家康の3男)に講書をおこなっている。また、慶長19年(1614年)の大坂の役に際しては方広寺梵鐘に刻された京都南禅寺の禅僧文英清韓による銘文中の「国家安康」「君臣豊楽」の文言の件(方広寺鐘銘事件)で、家康に追従して、これを徳川家を呪詛するものとして問題視する意見を献じた。さらに羅山は「右僕射源朝臣家康」(右僕射は右大臣の唐名)を「家康を射る」ものであると無理にこじつけた見解を表明している。
寛永元年(1624年)、3代将軍・徳川家光(秀忠の長男)の侍講となり、さらに江戸幕府政治に深く関与していくことになる。その活躍は、『寛永諸家系図伝』『本朝通鑑』などの伝記歴史編纂校訂、古書・古記録の採集、「武家諸法度」「諸士法度」「御定書百箇条」などの撰定、外交文書の起草、朝鮮通信使の応接など多岐にわたっている。寛永12年(1635年)には武家諸法度を起草し、翌寛永13年(1636年)には伊勢神宮参拝典礼にあたっている。
寛永7年(1630年)、将軍・家光から江戸上野忍岡に土地を与えられ、寛永9年(1632年)、羅山は江戸上野忍岡に私塾(学問所)・文庫と孔子廟を建てて「先聖殿」と称した。のちに忍岡聖堂と呼ばれる施設である(これらはのちに神田の昌平坂に移されることとなる)。この私塾からは、多くの門人が輩出し、後世の昌平坂学問所の基礎となった。また、尾張藩初代藩主の徳川義直は、羅山が羅山の私邸の一角において孔子を祀る略式の釈奠を執り行うことについて援助しており、晩年は幕府より910石を給せられた。
徳川家の家康・秀忠・家光・家綱の将軍4代に仕えた羅山は、初期の江戸幕府の土台作りに大きく関わり、様々な制度、儀礼などのルールを定めていった。学問上では、儒学・神道以外の全てを排し、朱子学の発展と儒学の官学化に貢献した。博識で、学問書だけでなく紀行書を著すなど文人としての活躍ぶりも多彩である。羅山は幕府に対しては僧侶の資格で仕えながら、仏教批判をおこなっている。
なお、林家当代の主が大学頭(だいがくのかみ)と称したのは羅山の孫の3代・林鳳岡の代からであり、以後林家は代々幕府の教学の責任者としての役割を担い、駿河文庫の管理もおこなった。
明暦2年(1656年)には最愛の妻を亡くしている。翌明暦3年(1657年)、明暦の大火によって邸宅と書庫を焼失し、その4日後に死去した。書庫が焼失した衝撃と落胆で命を縮めたともいわれている。享年75歳。墓は東京都新宿区市谷山伏町(国史跡 林氏墓地)にある。幕府による羅山の登用は、儒学者の社会的地位の向上に大きな役割を果たしたといえる。
林羅山像 江戸時代後期模写・wikipedia-photo、方広寺の鐘銘・wikipedia-photo、「林氏墓地。林羅山をはじめ一族が眠っている。国の史跡に指定されている。内部は11月初旬のみ公開されている」・wikipedia-photo、湯島聖堂・wikipedia-photo、「『吾妻鏡』古活字本寛永版・林道春(羅山)の跋文」・wikipedia-photo  (wikipedia・林羅山より)]

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