水野和泉守(水野忠精)上屋敷跡(三菱ビル・スカイバス東京 チケットカウンタ)

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マーカーは水野和泉守(水野忠精)上屋敷跡(三菱ビル)です。

関連リンク – 「水野監物邸跡(岡崎藩水野家中屋敷跡)」、「老中屋敷跡(東京中央郵便局・JPタワー)

※水野忠邦が老中屋敷を拝領したのは老中屋敷跡(東京中央郵便局・JPタワー)と思われ、この地は水野忠邦の子・水野忠精が若年寄(1860年 – 1862年)就任中役宅として使用したと思われます。

水野和泉守(水野忠精)上屋敷跡
[水野家の屋敷は、「水野和泉守」の名が大名小路上側に見える。右側隣地は織田信濃守上屋敷、左側隣地は松平周防守中屋敷、裏側には林大学頭(大カク)がある。大名小路とは現在の丸の内一帯をさし、絵図では和田倉門馬場先門数奇屋(スキヤ)橋鍛冶橋呉服橋道三橋に囲まれた一帯で、とくに中央に走る道を大名小路と言った。現在では、有楽町の旧そごう百貨店脇から北へ、三菱銀行本店、丸ビル、新丸ビル前をへて永代通りまでの都道の一部である。老中若年寄をはじめ、有力諸大名が上屋敷を拝領し、評定所伝奏屋敷南町奉行所北町奉行所定火消屋敷などが置かれた。  (「首都大学東京図書館本館」より)]

水野忠精
[幼名は金五郎。名は忠精のほか、忠良、忠経。父・忠邦が天保の改革に失敗して隠居したため、家督を継いだ。弘化2年(1845年)、遠江浜松藩から出羽山形藩に移封されるが、これは父の失脚に伴う左遷である。
その後、安政5年(1858年)寺社奉行万延元年(1860年)若年寄などを歴任し、文久2年(1862年)には老中となった。老中在任中は横須賀造船所の建設を推進したともされる。慶応2年(1866年)に長男・忠弘に家督を譲っている。
明治17年(1884年)52歳で死去した。  (wikipedia・水野忠精より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 一之二[文久元酉年(1861年)]」(絵図中央付近・「御堀」上方向に「水野和泉守」(水野忠精上屋敷)が描かれている。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 一」[コマ番号76/130・左ページ「当時之形」(文久元年)中央右に「水野和泉守」と記述されています。)

カメラ西方向が水野和泉守(水野忠精)上屋敷跡に建つ三菱ビル玄関で、玄関ホールにスカイバス東京 チケットカウンタがあります。

スカイバス東京 チケットカウンタ前のカメラです。(スカイバス東京ホームページ)

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