田沼意正上屋敷跡

マーカーは田沼意正上屋敷跡です。

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP769・コマ番号428/553の相良改小久保藩上屋敷の変遷について下記の通り記載されています。
『相良改小久保藩 子爵田沼家 旧封一万石
一、上屋敷 小川町
  拝領寛延元(1748)年十月朔日 添地拝領宝暦元(1751)年八月 上地宝暦八(1758)年九月廿八日
一、上屋敷 呉服橋内
  拝領宝暦八年九月廿八日 上地明和四(1767)年八月十五日
一、上屋敷 神田橋内 
  拝領明和四年八月十五日 上地天明六(1786)年閏十月五日
一、上屋敷(元下屋敷) 木挽町四丁目 
  唱替天明六年閏十月 相対替文化元(1804)年十二月元年五日
一、上屋敷 駒込苗木縄手
  唄替文化元年十二月 上地文政二(1819)年八月十四日
一、上屋敷 大名小路
  拝領文政二年八月十四日 上地天保五(1834)年月不詳
一、上屋敷 飯田町餅木(冬青木)坂
  拝領天保五年月不詳 上地文久元(1861)年十月 坪数三千三百拾四坪余
   元岩槻藩大岡氏ノ屋敷ナリ。坪数同藩ノ條参照
一、上屋敷 馬場先門
  拝領文久元年十月 坪数不詳
   玄蕃頭意尊文久元年九月十四日若年寄就任ノ屋敷替ナリ。慶応二(1866)年十月離任
   御沙汰留、文久元年十月諏訪因幡守馬場先内屋敷上ヶ田安餅木坂田沼屋敷被下、田沼玄蕃頭諏訪屋敷被下、餅木坂屋敷上ケ。』
この屋敷地は田沼意正が文政二(1819)年拝領した大名小路の地です。]

田沼意正
[田沼 意正(たぬま おきまさ、宝暦9年(1759年)- 天保7年8月24日(1836年4月21日))は、陸奥下村藩の第5代藩主、のち遠江相良藩の藩主。相良藩田沼家6代。藩祖・田沼意次の四男で、初代から3代の下村藩主の叔父に当たる。母は側室田代氏。正室は水野忠友の娘(のち離縁)。子は意留(長男)、柳生俊能(次男)、娘(柳生俊章正室)など。初め、水野忠友の養嗣子として水野忠徳(みずの ただのり)を名乗った。通称は金弥、玄蕃。官位は従四位下玄蕃頭、内膳正。
生涯
安永3年(1774年)7月27日、老中水野忠友と養子縁組し、その娘と結婚して水野忠徳と名乗る。安永4年(1775年)11月15日、将軍徳川家治御目見した。同年閏12月11日、従五位下中務少輔に叙任された。しかし、天明6年(1786年)9月5日、実父・意次の失脚により、養子縁組を解消されて田沼家に戻された。このとき、母方の姓である田代を称し、田代玄蕃(たしろ げんば)と名乗っている。
文化元年(1804年)7月26日、従子である陸奥下村藩主田沼意定の死去により、末期養子として田沼本家の家督を相続した。同年10月1日、将軍徳川家斉に御目見した。同年12月16日、従五位下玄番頭に叙任された。後に内膳正となる。文化3年(1806年)6月1日、大番頭に就任した。文政2年(1819年)8月8日、若年寄(西丸・1819年 – 1825年)に就任した。
文政6年(1823年)7月8日、忠友の跡を継いだ水野忠成の推挙や家斉の尽力もあって、旧領である遠州相良への復帰を許された。文政8年(1825年)4月18日、側用人(西丸)となった。同年12月、従四位下に昇進する。天保5年(1834年)4月26日、側用人を病気を理由に辞任する。天保7年(1836年)4月21日、隠居し、長男意留に家督を譲った。同年8月24日、78歳で死去した。墓所は東京都豊島区駒込の勝林寺
意正の時代になって田沼家が相良復帰、復権を果たしたのは、元来田沼派であった水野家の後継養子の忠成が将軍家斉の信任を受けて老中・側用人として栄達し、家斉の同意の下で意正を引き立てたためと思われる。  (wqikipedia・田沼意正より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 文政改正御江戸大絵図[出版年月日・天保4(1833)年]」(コマ番号2/4・絵図中央左方向、大名小路上に「田沼ゲンバ上屋敷」が描かれています。)

カメラは丸の内ブリックスクエア(丸の内パークビルディング)のストリートビューで、カメラ西北西方向付近が田沼意正上屋敷跡です。