矢来御門・上覧所(玉川上水樋管)跡

マーカーは矢来御門跡です。

矢来御門
[徳川家斉の葬儀の様子
側近くお仕えした男は、薙髪といってもとどりをきり、女房たちは尼になる者も多い。江戸城内は、吹上から矢来御門まで、2千m程の間は、畳を敷き詰め、雨覆いをし、人々は白妙に身を包み、御柩の御車を引き奉る。矢来御門で御輿にお移しして、読経を捧げ、竹橋一ツ橋筋違などの御門などを通って上野の御山内まで、お送りする。町なかは言うまでもなく、御山の内まで、それぞれの人々が警護し奉る。道々には提灯が絶間なく連なり、その間あいだには、ひさげに水を満たして、火災に備えて、物々しい様である。御輿を担ぐ人々は白い浄衣を着て、千人余りであるという。  (「江戸ノベルズ 10 – fuakiの日記」より)]

上覧所
[江戸時代の山王祭の山車行列
6月15日未明から、山王祭の山車行列が出発した。町内より山下御門を入り、日比谷御門の御堀端沿いに進んで桜田門の前で左に折れ、南番付坂を登って山王社の前で右に折れて御堀端通りに出る。半蔵門から城内に入り上覧を行ったのち、竹橋門を出て大手前の屋敷に沿って常盤橋御門を出る。  (wikipedia・山王祭_(千代田区)より)]

[9月15日(現在は5月)の例祭は、神田祭と称され江戸三大祭の一つ。華美に流れたため、幕命により天和元(1681)年から山王祭と隔年で本祭を開催することとなった。その豪華な行列は、未明に湯島聖堂隣の桜馬場に集合、外神田、内神田と進み、田安門から城内に入った。将軍の上覧に供された後、竹橋門から出て酒井家屋敷(神田明神旧地・平将門の首塚)を通り常盤橋門を出たところで解散した。  (「神田明神 | 錦絵でたのしむ江戸の名所 – 国立国会図書館」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御放鷹御成御膳所圖」(コマ番号5/99・上覧所御膳場絵図)

国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸城図」より矢来御門・上覧所周辺図

玉川上水樋管
玉川上水留. [11] 玉川上水代官町土手上御本丸掛矢来枡弐之枡樋筋御普請一件 天保九戌年正月より十月 御普請方 分冊ノ一」(27,28/73・矢来御門、上覧所周辺の玉川上水樋管が描かれています。)
玉川上水留. [13] 玉川上水代官町土手上御本丸掛矢来枡弐之枡樋筋御普請一件 天保九戌年正月より十月 御普請方 分冊ノ三」(87,88/96・矢来御門、上覧所周辺の玉川上水樋管が描かれています。)
「玉川上水留. [14] 玉川上水代官町土手上御本丸掛矢来枡弐之枡樋筋御普請一件 天保九戌年正月より十月 御普請方 分冊ノ四」(61/86・矢来御門、上覧所周辺の玉川上水樋管が描かれています。)
玉川上水留. [26] 玉川上水代官町通御鷹部屋掛其外樋枡御普請一件 弘化二巳年七月より十一月迄 御普請方 分冊ノ一」(44/114・矢来御門、上覧所周辺の玉川上水樋管が描かれています。)
玉川上水留. [27] 玉川上水代官町通御鷹部屋掛其外樋枡御普請一件 弘化二巳年七月より十一月迄 御普請方 分冊ノ二」(21/106・矢来御門、上覧所周辺の玉川上水樋管が描かれています。)
玉川上水留. [77] 玉川上水代官町土手上より御本丸掛矢来枡弐之枡樋筋并御鷹部屋掛其外共御普請一件 安政四巳年八月より同五午年四月 分冊ノ三」(33,34/86・上覧所への玉川上水樋管が描かれています。)

矢来御門・上覧所があった辺りは現在の乾濠小公園と思われます。乾濠小公園には籠瀬満夫作『森の調べ』の彫像が設置されています。(commons.wikimedia)

カメラ南方向に 籠瀬満夫作『森の調べ』が見える。